『父の肖像』外伝
★★★★☆
「本書は『セゾンの失敗』の、たんなる検証ではない。日本の近代がどう成り立ち、戦後
消費社会がどのように誕生し、爛熟し、崩壊したか、それを一企業の歴史、一企業人の
生涯を通じて、追体験してもらうためのものだ」。
「堤清二さんは対談を拒否し、代わって辻井喬さんが対談を受けいれてくださった。その
とおり、本書の共著者名は、辻井喬となっている」。
本書の真価はまさにこの点にある。めくっていくとひたすらに印象的なのは、回顧の
いちいちがポジティヴな意味で他人事。私小説が退屈な私語りへと帰着することなく、
一般性、共有可能性へと開くための客観性が辻井、あるいは堤を支配していることを
知らされる。上野はこのことを辻井の堤に対する「自己批評意識の人格化」として説明
するが、それは若干正確性を欠く。
「流されて、流されて」との自己分析がすべてで、彼においては行為主体としての意識が
そもそも欠落していて、すべてが観察されるべき対象として把握されることとなる。無論、
観察対象としては己とてその例外にあたるものではない。この性質が辻井の作家性を
幸運にも担保しているのだ(こうした事態を指して、例えば加藤周一は「私はそもそもの
はじめから、生きていたのではなく、眺めていた」と見事に表現している)。
辻井がこの喪失感を埋め合わせんとすれば、それはただひとつ、本書でも認めている
ように、父・康次郎を持ち出さずには決着すまい。その限りにおいて、このテキストは
『父の肖像』と併せて読まれるべき一冊。
「権力の正当性は統治される側の国民」との表現は「正統性」の誤りだし、「旧世代型の
中間組織は全部信頼をなくした」としてその一例に「家族」を組み入れるが、それは
あくまでイエ制度、家父長制の瓦壊であって、現代的な核家族モデルは必ずしも
その範疇にはない、ボトムアップの優位性、wisdom of crowdsの理解、称賛の仕方が
やや極端すぎる、など粗さは至る所に目立つものの、消費社会、ポスト消費社会の
解釈としては総じて概ね適当で、宮台や東の言っていることが実はあまりよく分かって
いないという方への手引きなんかにも役立つことがあるかもしれない。
少なくとも本書の上野はそこまでバカじゃない、それもまた密かな収穫のひとつ。
セゾン、その栄光と挫折の歴史
★★★★☆
本書は、西武セゾングループのトップであった堤清二/辻井喬と、
同じくセゾンの社史の編纂にも携わりその組織と歴史にも明るい
社会学者/フェミニストの上野千鶴子の対談本だ。
タイトルには『ポスト消費社会のゆくえ』とあり、その「ポスト」と「ゆ
くえ」の言葉から現在から未来の方向に向けて語っている内容な
のかという印象を受けるが、読後の感想としてはむしろ、今までの
「消費社会」と辻井氏が構築し崩壊させたセゾン王国のその栄枯
盛衰を懐古するという内容と言える。50年代から70年代、70年代
から80年代、そして90年代以降、2008年現在というように時代を
区分し、上野氏が辻井氏に当時の状況を質問(詰問?)するといっ
た形式で進行する。
特にバブル以後の失敗など、徹底的にグループの失敗を上野が
追究し、また辻井も真摯に応えているところなど、今時の“当たり
障りない対談本”には終わっていない。
封建的な父への反逆心から清二氏が乗り込んだのが西武グルー
プであり、以後彼がそこから文化を発信していったというのは興味
深いが、それ以上にそんなそうはなりたくなかったはずの父の似姿
になってしまい、結果組織の危機的状況になるまでそれを把握でき
なかったというのは、やはり血は争えぬということだろうか。
また「汚い街」になり果てる前の渋谷にて、西武とパルコが繰り広げ
ていてた、先進的な方向に消費者を導いていくための啓蒙的な広告
の実践が、バブル前にはすでに失効していたというところなど、高貴
な理想は頓挫もまた早い、ということか?
あいにくこの本は、具体的な現状の閉塞を打開する方法は教えてくれ
ないがしかし、セゾンの歴史と70年代に花開く消費社会の一様を垣間
見れるという意味において、価値ある対談本だ。ところで、そんな辻井
さんの生み出したもので今もっとも輝いて見えるのが例の「KY(価格
安く)」の西友だというのは、歴史の皮肉だろうか。
セゾングループの盛衰史であり戦後の社会経済史でもある
★★★★☆
辻井喬と上野千鶴子の対談を本にしている。主役は、60年代後半から80年代にかけて消費を文化として社会にアピールしたセゾングループの総帥としてこのグループを率いていた堤清二であるが、作家の辻井喬というキャラクターで対談に臨んだ。このため、この間のセゾングループの発展と90年代からの衰退過程を、上野のつっこみに対して、辻井は、経営者として自ら行ったことを美化することもなく、また、正当化や自己弁護でもなく、文明評論家的な視点から、一部は自己批判意識からも説明しているという印象である。したがって、企業経営者の多くの本にあるような鼻持ちならない自慢話はほとんど無いが、逆に、第三者的にあまりに淡々と説明されると、このような経営者についていった幹部を初めとする社員は何かやりきれない気持ちになりはしないかという気がした。読み終わって、堤清二という人物のイメージが、消費社会におけるカリスマ経営者から、創業2代目の坊ちゃん社長に変わった。戦後社会の大きなダイナミズムの中で、企業戦略に基づいて発展し、その後、停滞というセゾングループの発想や盛衰の物語としても、また、戦後の社会経済や世相を考えるうえでも興味深い内容である。
堤清二というハンドルネームを持っていた辻井喬という作家
★★★★★
大変面白く読めた。
一点目。一時期 猛威をふるったセゾングループの文化戦略への理解が深まった。
今では想像がつかない部分もあろうが 一時期 日本の文化をセゾンがリードした時期が確かにあった。 各種広告コピーに始まり 美術や映画といったジャンルでのセゾンの「発信力」と「発言力」は大きかった。本書を読む限り それは堤清二というオーナーの意向であり 堤の引退と共に 文化戦略の後退・消滅となったことも否めない。
それは セゾングループの文化戦略の「底の浅さ」と言ってしまえばそれまでだ。しかし 結局は支持できなかった僕らの責任でもある。結局 堤についていけなかった僕らの問題でもあるのだ。
二点目。辻井喬と堤清二の関係について 上野は前者を主とし、後者を従としている点に強く共感を受けた。
辻井の「古寺巡礼」のレビューにも書いたが 堤=辻井の人生において ハンドルネームだったのかは堤清二なのか 辻井喬だったのかという議論はあり得る。僕はむしろ辻こそが本名であり 堤が仕事上のハンドルネームだったと理解すると「古寺巡礼」の際に書いたが 上野も 同様のことを言っており読んでいて意を強くした次第だ。
三点目。本書で堤はセゾンの失敗を自己責任であると明言している。
経営者が自己責任を認めることは潔いし、実際堤自身が100億円を超える私財を投じて経営難を支援したことも知られている。当然ながら 自己批判を出来る経営者は少ない。
では なぜ堤がそれを出来たのか。やはり 辻井というもう一つの自分自身があるという強烈な自負心が有ることではないか。
上野も本書で述べているが 堤だけだったら 他の凡百の経営者の一人ということで終わっていたはずだ。
そこに辻井という存在があることが 本書が成り立つ理由になっている。辻井がいる御蔭で 堤は 自分を相対化出来るようになったはずだ。そうして上野が興味を持つのも その堤=辻井 二重構造の中からセゾンという文化発信装置の誕生と終焉が見えてくるからに他ならない。
僕はそう感じた。
私たちは常に変化の中にあり続ける
★★★★★
上野さんのツッコミが非常にするどく、全編を通じて多くの示唆に富んでいます。私たちの世界には「たったひとつの正解」なんか絶対に存在せず、私たちは常に変化のなかにあり続けるという宿命を受け入れなくてはならない、ということがよく分かります。これは単に人間社会のことに留まりません。地球の歴史も変化の歴史そのものでした。いまはやりの生物多様性保持なども保守的な人間本能が求める「私たちに親しい(地球史的に見れば)一瞬の風景」を正解の風景として保持しようとする無益な試みであるといえるかもしれません。