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虚構の「近代」―科学人類学は警告する

価格: ¥3,360
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新評論
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対称的でなかった「人間とそれ以外」の分離 ★★★★★
 科学を外から探究しよう、という問題意識は、一九世紀末あたりから、次第にはっきりして、科学史と科学哲学という、しばしば繋(つな)げて考えられる(したがって、ときには「学問上の双子」とも呼ばれる)二つの領域を生み出した。これらは、日本でも戦後次第に制度化が進んで、国際的な視野のなかで活躍する学徒も多数登場した。科学史・科学哲学の誕生から約半世紀遅れて、科学を外から扱うもう一つの領域として、科学社会学が出現した。二〇世紀半ば近くのことである。この分野は、二つの一見異なるモティーフを内蔵している。その第一は、世の中に多数の科学者が存在するようになって、彼らが、一般社会のなかで、一つの「下位社会」を構成するようになったために、「科学者の社会」という社会が、社会学的に見て、どのような特徴を持っているか、という点に着目する、というものである。もう一つのモティーフは、こうした「科学者の社会」と一般の社会との間の関係を考えよう、とするものである。後者の視点は、とくに科学研究の成果が、二〇世紀半ばから、産業や軍事(その典型がマンハッタン計画である)などに利用されるようになったことに絡んでいる。

 そして現代には、技術も含めて、科学・技術と社会(一般の)との関係を、様々な角度から追究しようとする、科学社会学の発展型として、「科学・技術・社会」論(英語では、それぞれの英単語の頭文字をとってSTSと呼ばれる)という領域が展開しつつある。それは必ずしも学問の世界のみならず、行政や政治の問題としても重要であり、研究者も領域横断的に拡(ひろ)がっている。

 著者のラトゥールは、この領域の論客として、多くの仕事を積み重ね、著作を発表してきた。本書は、それらのなかでも、非常に大きな影響を国際的に与えた代表作である。もともとはフランスで一九九一年に発表された「我々は一度も近代であったことはない」と直訳される表題の著作で、九三年には英語版が発表されている。本訳書は英語版によったよしである。この表題は、「ポスト・モダン」論議がかまびすしい当時のヨーロッパ論壇にとって、かなり刺激的であったことは想像に難くない。

 著者の近代を読み解く鍵は、人間と人間でないもの(「もの」などなど)との分離である。人類学的な背景を持つ著者らしく、次のような指摘があるのは興味深い。人類学者が、非近代的な文化社会に対峙(たいじ)するとき、彼らは必ずしもこの分離を持ち出さない。そういう相手のときには、丸ごとの人間や世界を扱わざるを得ないからだ。しかし、この分離は本当に成功しているのだろうか。そこに、鍵概念として登場するのは、「ハイブリッド」であり「ネットワーク」であり「アシンメトリー」である。いずれもカタカナ語で、評子としては心苦しいが、要するに分離が「対称的」に行われていれば、他の二つの概念も必要がなかったかもしれないが、そうではないがゆえに、「異種の混淆(こんこう)」(ハイブリッド)と、相互の連関(ネットワーク)が必要となる。

 こうした道具立ての上に、現代社会の特徴が、鋭く切り出される。巻末に付された訳者の「解題」は力の籠(こ)もった大作である。ただ、訳者特有の原則があるのかもしれないが、(ア)シンメトリーが「(ア)シメトリー」、ルネ・ジラールが「ジロー」などと表記されるのは、ちょっと異例で気にならないこともない。(川村久美子・訳)

毎日新聞 2008年8月31日 東京朝刊