ここで筆者は、日本で戦後後退した価値観に木下が強く執着したことを重視している。
その最たるものはずばり「親孝行」に代表される家族愛だ。また「天職」という言葉に見られる仕事を通じた社会に対する責任感であり、あるいは「地の塩」といわれる社会の大半を占める無名で勤勉で倫理観の強い人々に対する称賛だったりする。
こうやって書いていてむずむずするくらい、カタい言葉が並んだが、その一方で筆者は木下がきわめて辛辣な批判精神、ドライな感覚、執念深さ、シニシズムなどの持ち主であることを指摘することを忘れない。
作品数が多い上に「喜びも悲しみも幾年月」とその直後の「風前の灯」が同じ佐田啓二と高峰秀子主演で、前者の夫婦愛を後者でからかうように仲の悪い夫婦役をやらせたように、わざと一筋縄でいかないよう作っているようだからトータルな形での木下恵介論が出にくい。
本書も作家論というのとはやや趣きが違う。「20世紀を見抜いた男 マックス・ウェーバー物語」がウェーバーの伝記でも社会学の研究書でもないように、きわめて周到な調査の裏打ちをもって木下恵介を描きつつ筆者自身が時に読売新聞の社員として、あるいは映画評論家として、また直木賞作家として戦後を生きて来た間に、若いうちは伝統的な倫理観・価値観に反発してきた(その最たるものが黒澤明、特に「赤ひげ」をその圧倒的表現力を認めつつ「家父長的」と批判したこと)に対し、今に至って改めて日本人は、また自分は何を捨てて来たのかを検証した、一個の「作品」というべきだろう。