しかし、その変質的に思えてしまう原因はどこなのか?個人的な見解ですが、どうもその理由は物事に対する百閒のこだわり方にあるように思えます。 百閒という人は世間一般の人がこだわるような仕方で、こだわるのではないのです。
例えば、「おからでシャムパン」という随筆が収められているのですが、普通おからを炊くというと、中に入れる具にこだわるとか、炊くときの出汁にこだわるとか、こだわりどころは主にその「味」に集中するはずなんです。ところが百閒の場合、おからについてこだわることは「見た目」なんです。おからを買ってきて、それを布袋に入れて洗い、すり鉢にいれて摺って、固く絞って山形にまとめ、その上にレモンを絞って食べる。こうするとおからが真っ白いままで気分が良いのだそうです。
終始こんな具合で百閒先生は物事に対するこだわり方が一般人とは違います。
百閒先生のこだわり振り(変質振り?)を伺うには最良の随筆集、必読!
これまでも百閒を読んで面白かったのだが、百閒のどこが面白いのかわからなかった。今回はその一端に触れたように思う。「絹帽」で、あらたまった場所に出るためにシルクハットが必要になった百閒は帽子店を探して格安のものを見付ける。ものが悪いのではないが、サイズが合わず頭にはまらない。それでも割り切って買ったのだからと、堂々と使用する。
百閒は万事がそんな感じで、世間の規範を認めてそれに従うのだが、従い方については自分のやりかたを持つらしい。読者としては、そこに際立ってくる齟齬に感心したり、痛快さを覚えたりする。直接のおつきあいはできるものなら遠慮したい偏屈だと思うけど。