丸谷 高段者の将棋は、一手指すごとに、指した方が有利に見えると言うでしょう。同じように、光源氏の立場に立って書かれると光源氏に同情し、紫の上の立場に立って書かれると紫の上に同情する、という調子で読んでしまいますね。まるで高段者の将棋の感じ。
大野 そう。こういう描写はこれまでのa系、b系にはなかった。女の側に立つとこうなり、男の側でこうなるというふうに、こっちもそれにつられて右に揺れ、左に揺れながら読むという内容ではなかった。(中略)その様子を、作者はきわめてこまかに書いているので、読んでいて引き入られてしまう。
丸谷 それが社会的位置を抜きにした単なる男と女の関係じゃなくて、社会的なシチュエーションがきちんとある。そのなかでの恋愛であるというところが面白いんですね。王朝の社会というものを紫式部はたいへんよく見ていたという感じがします。(下巻 24ページ)
男と女、異なる気持ちが書けるとは、<かむかふ>の結果ではないか。(注:<かむかふ>とは<考える>の語源であり、その意は身を交わすことにある。考えるとは相手の身を我が身とするのが原義だとする小林秀雄の説によっている。)
二元論は揺れ。上首尾なら、<かむかふ>道行きとなろうが、問題はその揺れが「社会的位置を抜きにした単なる揺れじゃなくて、社会的なシチュエーションがきちんとある。そのなかでの揺れ」であればこそ、1000年を隔てても響き合えたのではないか。
揺れ、とは「自己」の揺れでもあるが、「確固たる自己」に拘泥していては、この揺れは感得できまい。むしろ、あなたとわたし、を包み込む揺れの幅を<今><ここ>において広げることが、言葉・行為(事)・精神(心)を包含したそれぞれのわたしの豊かさとなる。「わたし」に固まることでも「わたしたち」を切望することでもない。
と思った次第。