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日本語の源流を求めて (岩波新書)

価格: ¥861
カテゴリ: 新書
ブランド: 岩波書店
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「日本語論」というより「日本文化論」では? ★★★★☆
日本語は、「色々な言語が流入して出来ている」というのが、大抵の学者が認める定説のようです。本当に特殊な言語のようです。色々な所から流入した言葉が現在まで残っているという定説には納得です。

著者は、この源流の一つとして、タミル語が文化や技術と一緒に流入し、弥生時代が始まったと主張しています。画期的な仮説であるが故に、この証明は並大抵の苦労では出来ません。それを支えたのが、著者のロマン溢れる情熱です。文章の至るところに滲み出ていて、心を熱く揺さぶります。仮説の正否は別にしても、学問に向き合う者の情熱を知るには、とても良い著作です。

著者の説には、反論も多いようです。そのほとんどは、「比較言語学」の研究方法を当てはめると、基礎語彙200語の一致率が低く、語源の一つとするのは誤りだと言うものです。しかし、この200語は、日常生活にかかわりの深い用語ばかりです。

著者が想定するような状況であれば、日常の生活用語より、生産、海運、祭事などの分野に流入した文化的用語が多いはず。「日本語のタミル語起源説」を否定する学者も、基礎語彙がわずかしか流入せず文化的用語が沢山流入するケースがある事を認めています。(参考:安本美典「日本語の起源を探る」)つまり、そのまま「タミル文化の影響の否定」にはならないようです。

幕末から明治期におけるヨーロッパの影響を否定できないのと同様です。大集団の移民を受けず自主的に異文化を吸収したものと仮定すれば、縄文時代から弥生時代への転換は、鉄砲の伝来・普及か、あるいは、明治維新のようなものだったのかも?

著者は、初めてタミル語に接した時の直観を頼りに、「初めに結論ありき」で、「日本語のタミル語起源説」の証拠探しを始めたと明かしています。画期的な学説の多くは、そうした直観から始まるのかもしれません。著者が情熱的に集められた証拠の数々から、最初の直観とは異なる結論が導き出されても良いのではないかと考えます。
日本語の源流に行ってきました ★★★★★
言語学者大野晋博士の「日本語の源流を求めて」の本の背景を知りたくて、仲間10人と南インドの旅に2010年2月15日から21日まで行ってきました。チェンナイに入って、タミルナード州立博物館、チェンナイ大学考古学研究所資料館、サーヌール遺跡探査、資料館。ポディシェリー博物館、アリカメード遺跡探査、タミル大学付属博物館、シッタンヴァーシャル遺跡探査とこの本に書かれた、巨石文化の跡や遺物、黒縁赤色時、甕棺などと環状列石、石棺墓など及び水田稲作の様子などタミルの古代文化と日本の北九州の弥生文化の類似性を確かめてきました。大野氏の言語学的な類似性の論証は飛行機の乗り継ぎの時間に心行くまで読みきりました。もちろんヒンズー教の世界遺産の寺院やサントメ聖堂(桟留のピジン語説)にも寄って来ました。
八十八歳 渾身の遺作 ★★★★★
著者は、ベストセラーとなった「日本語練習帳」で知られる国語学の大家だ。

南インドのタミル地方で使われているタミル語と日本語との多くの共通点、文化の類似点を挙げ、
日本語の起源をタミル語に求めている。
国語学者として、多くの研究書のある人の学説だけに説得力がある。

本書に上げられた多くの例を見ると、確かに類似点は多い。
日本語-タミル語 = 足-ati。 切る-kiri。 高-takar。 など。
語順も日本語とタミル語は同一ということだ。

また農耕の方式、墓の形(古墳の石室)、土器の形・文様などにも共通点がたくさんあることを、豊富な図版で説明している。


著者のこの説には、数々の批判があるそうだが、本書を読む限りでは、日本語-タミル語起源説は確かそうに思える。


本書は、著者八十八歳の最晩年に著した、渾身の遺作である。
あとがきに「ともあれ少年時代からの志を、この年になって漸く一つの形にすることができた。・・・」という言葉を残している。
そして、本著刊行の翌年、著者は他界している。

結びの次の言葉が、とても印象的であった。

 『娯楽は必要である。しかし軽佻と快笑とはちがう。
 だいたいラジオ、テレビ以前は娯楽は正月・薮入りなど限られた日に特別な場所で楽しむもので、連日連夜、浮薄な笑いにひたされることは、かつてなかった。
 これでよいのか。
 この眼の前の困難な世界を切り抜けて行くには、各々が自主自立の心をもって、新しいものの創造、明確な日本語の使用に挑み続ける以外にはない。
 日本の文明と言語の成り行きを見届けたいものである。』と。
南インドからの渡来人 ★★★★★
日本語学者としての著者の業績と名声にはすでに赫々たるものがあった。その著者が日本語に対応する語を多く持つタミル語という南インドの言葉に出会ったのは60歳になってからであった。評者は「ドラヴィダ語」(タミル語はこれに含まれる)というまるで耳にしたことのない遠い国の言葉に日本語との類縁性があるという著者の論を新聞で目にしたときはそのあまりの途方のなさに驚いた記憶がある。しかし言語学者として深い研鑽を積んでいた著者は並み居る同学の冷ややかな反応をものともせず、現地のタミル語学者たちの教えを乞いつつ着々と研究の歩を進めた。たしかにその後の25年間を通じて、人間は古代から驚くべく広く遠く、放浪、漂流を続けたことへの認識が深められている。しかし評者には真に驚くべきことはそのような認識の深化に著者が発表する研究業績が一役買っているとさえ思えることである。
本書は僅か270頁ほどの小さな大著である。それは明晰ではあっても読みやすい本とはいえない。それは一般読者に向けられた本ではあってもそれ以前に出された2冊の学術的著書を踏まえている。著者は少年時代から「日本とは何かについての自分なりの答えを書くこと」を希望していたという。その希望は日本語の研究に始まりついには考古学の世界にまで著者を導き入れたのである。
著者は日本語の源流をたどって、タミル語が日本語のどこにどのように重要な位置を占めているかをおおよそ明らかにするという偉業を達成した。それは凡百の論者を登壇させ続けてやまない「日本人論」にも貴重な示唆を与えるものである。そればかりではない。著者の主張にはまた、タミル語の伝来は水田稲作を伴っていたというもう一つの大きな論点が付随している。当然ながら、本書をこの二つの論点を中心として読み終える読者は多いだろう。しかし本書はまた、著者大野晋の生涯をかけた研鑽の足取りでもあり、その通りすがりの光景に惹きつけられる人も少なくないだろう。
珠玉の名著 ★★★★★
ここの評価欄にも書かれているように、タミル語の-a-はタミル語内部で-u-とも
(共時的に)交替する。
それゆえ、タミル語-a-は日本語と-a-と-o-以外に-u-とも対応する(数は少ない)。
ところがこういうことに拒否感を持つ人々がいる。この種の拒否感は、印欧
比較言語学に見られる一音一対応を盲信するところから生ずる。日本語はクレオール
タミル語であるとすれば、このような軛から解放されるであろう。
現実に、タミル語内部で-a-は-u-とも交替しているのであるから、日本語でも
タミル語-a-は-u-にも対応するのは当然なのである。

タミル語-a-は-i-とも交替する。つまり、タミル語では/i/と/a/と/u/が相通する
場合がある。従ってこれが日本語にも反映して「いる」「ある」「おる」という
語が存在する。これらはタミル語iru、aru、ulとの対応である。もっとも上代
日本語では「ゐる」「ある」「をる」だが、これは前置される語がすべて開口音の
ためにw-が調音として介入したものである。「ある」だけは「わる」になっていないが、
上代文献に載らなかっただけであろう。

なお、タミル語eの古形はaであり、さらにyaにさかのぼる。この通時的変化
は日本語にも及び、eはyaとも対応する。なおまた、タミル語iの古形がciである場合が
あり、従って、iが日本語siと対応する場合があることは否定できない。

このようなタミル語内部での交替ということに無知だと、大野説は出鱈目という
結論に至りやすい。この点を注意深く押さえてから批判すべきであろう。
ともあれ一語一対応という印欧比較言語学中心の思考から一歩踏み出さなければ
進歩はないであろう。