岡倉天心の思い出を読む
★★★★☆
『「いき」の構造』を何度も読み返した時期があったが、この随筆集は岡倉天心との関連で読んだ。
天心をアメリカに連れていったのが、九鬼周造の父隆一(後の初代駐米大使)だった。天心は隆一の妻(つまり、周造の母)と「関係」を持つ。それが原因で〈母は父から離縁〉される。
周造は、本書に収められている冒頭の「根岸」で、まず天心との「楽しい」出会いを綴る。そして、おしまいの「岡倉覚三氏の思い出」(「根岸」の文章をそっくりそのまま使っているところがある。やってはいけないことなのだが)で、母と天心との関係を、子どもながらに知ってしまったことを〈その時の具体的光景は私の脳裏にはっきり印象されているが、語るに忍びない〉と書いている。短い文章なのに、この部分は何度呼んでも戦慄させられる。
そういう「関係」だったにもかかわらず、九鬼家と天心の交際はつづく。このあたりが、当時の社会ならではのことだと思う。
周造も天心を尊敬しつづけた。その心境を周造は〈思出のすべてが美しい。明りも美しい。蔭も美しい。誰れも悪いのではない。すべてが詩のように美しい〉と書いている。
福永武彦の小説世界に通じるものがあるような気がする。
ちなみに、岡倉天心(覚三)は、まあ、いろいろ問題のある人物だったようだが、私にとってはいわばアイドルのような存在だ。
収録された随筆の内容に、かなり重複があり、編集基準が??
★★★☆☆
九鬼の哲学論文はその晦渋な文体で読むのが辟易するが、随筆はくだけた文体で随分読み易い。
が、不思議なことに収録された文章間に、かなりの重複があり、編集方針に疑問が残った。冒頭の「根岸」の内容の殆どは、巻末の「岡倉覚三氏の思い出」に繰り返されていて、両方収録する意義が不明。又、下手な駄洒落「天野がアナゴとアマゴを間違えた」話、「九鬼がクッキーにグキッとした」話も、違う文章で2回繰り返されて、少なからずウンザリした。
文章として最も充実感と勢いが感じられるのはやはり「青海波」で、この随筆は一読の価値あり。
薄い文庫本で携帯に便利なのが最大の利点。
目配りのきいた随筆選(解説が『「いき」の構造』のよき入門ともなっている)
★★★★★
『「いき」の構造』の著者である哲学者(選者いわく、文人哲学者)九鬼周造の随筆集。目配りの利いた選択で、九鬼の性格(抽象と煩悩、冷静と情熱、「あらゆる意味の冒険と猟奇を好む癖」(119頁))や嗜好(端唄や小唄好み、駄洒落好き)、国粋主義者的側面、若かりし頃の進路希望(植物学者、外交官)、複雑な家族・人間関係(父隆一と母波津子、天心・岡倉覚三との三角関係)などが、彼の美しくかつ明晰な日本語を通じ、読後に浮き彫りとなる。(できれば、初出誌と初出年月日を明示願いたかったが・・・)
個人的には、三編選ぶとすれば「青海波」(「甲があれば」(66頁)以下の文章速度感は何だ!)、「東京と京都」(ゲーテの戯曲「トルクヴァート・タッソー」からの引用が印象に残る)そして「岡倉覚三氏の思出」となる。
「左顧右眄して他人の思わくばかり気に懸けていては力の籠ったことは何事も出来ない。世事の煩累や論議の噪音の真直中で確乎たる方角へ導いてくれるものは「人」から離れた客観性である。即物性である。それが「天」である」(62頁)。「私は西郷南洲の「人を相手にせず天を相手にせよ」という言葉が好きである」(61頁)。