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寺山修司と生きて

価格: ¥1,995
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新書館
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息苦しいまでの悔しさが伝わってくる ★★★★★
 “寺山がしたい仕事をするための時間を作り出すためなら、私にできるすべてのことをした。電話の応答、スケジュール調整、郵便物の返事、契約書のサイン、一切の金銭支払い、税金の申告、衣類の購入、洗濯と。薬と水は時間になったら忘れないように手の届くところに置いた。柑橘類は皮をむく手間をはぶくため、そのまま口に放りこめるようにお皿に盛った。歯医者には私が先に行って待合室で順番を待った。「この次」というときに、喫茶店で原稿を書いている寺山を電話で呼び出すのである”という本文引用を穂村弘の書評で見て、すぐにこの本を入手した。何か凄いものを感じたからだ。
 寺山と言えば、私は奇跡的に最後の舞台を観ることができたが、あとはエッセイや短歌、映画の作家として、その才能に圧倒された。同時代を生き、芝居人としての寺山をもっと見られれば、と思ったものだ。
 田中氏は寺山の秘書として、最も身近な女性として、己を捨てて寺山に尽くした。上記の他に、劇団天井桟敷の制作・照明もこなし、寺山の母はつとの折衝に追われ、寺山の介護をし、複雑な女性関係の交通整理までこなし、寺山の全てを知り尽くしていた。
 ここで描かれるのは、天才寺山のイメージとは裏腹に、人の頼みを断われず、病をおしてもさまざまな仕事を引き受けてしまう寺山で、著者は寺山への絶対的な愛ゆえに、周辺の勝手な思惑や、寺山はつの横暴、主治医の非道ぶり等々に、さんざん悔しい思いをさせられる。その悔しさが本書の全てと言ってもいい。
 時代の濃密な空気、驚くほど多彩な交友関係を示す、著名人の固有名詞、そして想像を絶する寺山はつの言動など、興味は尽きない。田中氏あってこその寺山だったのだとわかった。死に至るまでの凄絶な日々や、死後の周辺の勝手なふるまいを読むと、彼女の悔しさが、痛いほど伝わってくる。彼女は寺山の、病気以外の痛みを全て身代わりとして引き受けたのだろう。
真実の寺山を深く理解し、彼を最後まで守り愛した人 ★★★★★
ある日ふと、懐かしいその方の名を書店で目にし、その本のただならぬ内容に買わないわけにはいかなかった。
あのころ、寺山修司の実験映画のなかに、題名を忘れたが(ローラかな?)、田中未知音楽担当のものがあり、とても印象に残っていた。
その後、劇団天井桟敷との関連でよくお名前を拝見していたが、彼の死後はそうではなくなっていた・・・そしてこの本との出会い。
寺山修司のもっとも身近にいて、もっとも彼を支え、深い思いを込めて惜しみない愛と献身を捧げた人、実母も含めまわりの人間や世間の誤解や誹謗中傷と望まないながらも戦いつづけ、ひとりのかけがえのない才能を持った天才をその死後も守り続けた人、いちずな愛に生きたひとりの素敵な女性。
「ぼくはたとえ誤解で殺されたとしてもかまわないね。自分ができる限りの力を尽くしたんだったら」この言葉に、寺山の真の強さを知り、彼のそばに最後まで留まった女性。
政治経済から機械や建物も含め、この世界の見かけの社会構造や社会常識は、主にわれわれ男たちが作り出したものかもしれない。でも、女性はそれと全く違う視点や考えでこの世や男性たちを見ているのではなかろうか?そんなことを田中未知の次のような言葉からも考えさせられた。
「日本の多くの男たちが・・・死ぬまえに花を咲かせる、といった言葉から脱皮できないのはなぜなのだろうか・・・自分は時代の責任をとってきたなどと口にする人間がいたら、私はたちどころにナルシスティックな男という印象を抱くだろう・・・生きてゆくのに大げさな意味は無用だ。ただ単純な優しさと人を思いやる愛が必要なだけだ・・・寺山修司という人はそれがつねにできた人なのだと私には信じられる。」
寺山を見守った女性たちはほかにもいた。しかし、田中未知はこうきりかえす。
「自分が愛する人間を純粋に愛する人々のことなら、私は愛せる。愛する人間をめぐってライバル意識をむきだしにすることのほうが、私には理解できない。」
男にはとうてい思いつかないし、書けもしないだろうことが、この本にはあり、それは寺山修司への興味や思いも超えたところから響いてくる。
寺山修司と生きて ★★★★★
寺山修司という多面体は、体験したその人ごとの寺山修司を作り上げる。もちろん寺山修司が意図的にしていたということもある。だから死んだのちに寺山修司についての本がたくさん出たが、ますます寺山修司の輪郭は朧になった。田中未知の寺山修司は、最も側で愛した人という立場から描かれている。だから寺山修司をとらえる確かな物差しの一つになる。寺山修司の最後の6年間ほど、僕も田中未知ほどではないが、かなり影響を受ける位置にいた。あたりまえだが、そこには知らない寺山修司もいて、意外に、人の印象よりも思想のディテ−ルだったりした。短歌の最後の7・7には円環と「私」がある。だからそこに埋没しがちだというような記述があった。それが演劇に向わせたのだ。だから劇場の円環性も否定したのだ、改めて思わされた。寺山修司は思考についても開いていた、都市に向って、人に向って、観客に向って。思想の像も輪郭が見えない。核がない。この本はその不思議の寺山修司にアプロ−チする最も最適なテキストブックかもしれない。