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仏弟子の世間話 (サンガ新書)

価格: ¥1
カテゴリ: 新書
ブランド: サンガ
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読んでいて、思ったこと・・ ★★★★☆
人に相談しておいて、「そうはいっても・・」と返すのが癖のような人がいる。
まあ、ときには自分も思い当るからの話しではあるんだろうが。しかし、相談に答える度にそんな反応が返ってくれば、「じゃあ、なんでオレに相談するんだよ」と言いたくなるものだろう。

そういう人は、だいたい相談する資格のない人だ。というと角が立つけれど、本人はあらかじめ自分に思うことがあり、いわばこだわり、ホントには人の意見など、いわば「異見」は耳に入れたくないというところが本当のところだという。それは先入観、固定した観念が当人のなかに壁を築いている状態だ。

ならばどうして他者に相談するのか?。それはやはり「そうはいっても」、自分の考えに自信があってのことではないからのことだろう。
せっかく相談するなら、だまって最後まで参考意見は聞いてみるものかもしれない.それが礼義というものだろう。たとえ訊いていて、「そうはいっても」と挟みたくなっても、それは自分の反発する自我のノイズでもある.とりあえず、相手はせっかく答えてくれてるのだ、黙って静に訊いてみるものだろう。

無念無想というのは「無念無想」というものを手に入れるようなふうに思うとこれも勘違いだという。
だいたい人が「考え」から開放されないのは「答え」が見つからないからだ。言ってみればそれは「考えつくして」いないからだという。堂々巡りに落ち入りやすい考えがある。未来への不安などもその類に入る.
考え尽す、とはどういうことかというと、ほんとうは「考えの中に答えがない」というところまで行くことを意味するのかもしれない。
ぼくらが考えるという中に埋没していると、考えという円のなかをぐるぐると移動しては元に戻るような、籠の中で、車輪を回すような哀しい鼠の姿にぼくらは似ている。
そういう意味で、あらためて「考え尽す」というのは、結果、「無念無想」へと関係して行く、という理解なのだろうか。
世間話から知る仏教の魅力 ★★★★★
現代は一筋縄では解決できない問題が山積みですが、本書読み仏教的な価値観で世の中をじっくり観察すれば「なんだこんなことか」と思えてくるはずだ。そこで世間話を基に仏教を語る本書は仏教に初めて触れる人には極めて重要だと思います。

まず個性についてです。社会や学校では欧米の影響を受けしきりに個性の確立を叫んでいます。
一方スマナサーラ長老は
「得体の知れない『個性』を強要されても、どうしようもありません。ただ苦しいだけです。だからそんな話には真面目に乗らずに、うまく逃げることです」(p24)
「(個性ではなく)どうすれば社会が君を認めるのかを考えろ」(p26)
とおっしゃっています。

もう一つの現代の流行語「権利」に対しては、
「権利を気にするということは、大変な目に遭っているということです。本当にうまくいっているなら、権利なんて気にすることもなく穏やかに暮らせます。…我々があまりにも人権、人権と言い出すときは、とっくに悲しい末期状態に陥っていると思って間違いありません」(p143)
とも述べられています。

また、生老病死は避けられないことですが、それら抗うことを「顛倒」といい苦しみの原因です。そこで、それらの事実をありのまま受け入れられるようになると明るく生きられるということは、注目に値する助言です。
「実際、今にも死ぬかもしれないとおもうと…喧嘩もしたくなくなるし、何か嫌なこと言われてもすぐにニコッと笑って返せる。…『自分が死ぬという場面でこんなことは全然関係ないだろう』と思うと、すごく楽になります」(p189)

最後に癌告知に関しては、本人に直接伝えるべきだという立場です。
「まず私(患者自身)に言ってほしい。それを家族に言うかどうかは私が判断する」(p195)死に直面するのは、患者自身であって家族ではありません。自分の死を受け入れるのが本当の尊厳なはずです。

このように本書から十分な仏教の魅力と懐の広さが分かりました。

玄侑氏よ、誠実に反論するのが礼儀である ★☆☆☆☆
これは、大乗仏教に対して、間違いが多いので勧めることはできません。

P50〜80:般若心経:空即是色は間違い?
まず、以下が仏教の流れです。
初期(原始)仏教⇒部派仏教(上座部、大衆部…:所謂、小乗仏教)⇒南伝仏教
             ↑上記への批判により枝分かれ、大乗仏教⇒北伝仏教

般若心経は、初期の大乗仏教の流れにあり、「新たに創られた経典」であり、
内容的には部派仏教を批判しているので、
当然、部派仏教側のスマナサーラ氏は「般若心経は間違っている」と主張します。

ここで、玄侑氏は、キチンと四つに組んで
「こうゆう理由で般若心経は間違っていないのだ」と説明する応答責任があった。
しかし、玄侑氏はしなかった。
この理由は、般若心経の理解ができていないので反論できなかったと考えます。
これは、スマナサーラ氏に、大乗仏教を(賛同してもらえないとしても)理解して
貰える良いチャンスでありました。
異質なものを理解することで対話が成立し、豊かになります。
お互いに、真剣ならば伝わるものです。

結果的に、二人の議論は「スマナサーラ氏の主張の般若心経は間違っている」と
いう結論となり、ブログでもそれを主張する人が現れています。

大乗仏典は、体験・信仰の表現ですから、西洋論理学の世界ではありません。
「色即是空」と、同時に、即で、「空即是色」が成立する世界です。
それが実際、今ここで起こっていることそのものです。
スマナサーラ氏は西洋論理学上での論理ミスを指摘していますが、
西洋論理学ではミスでも、現実は「空即是色」の世界なのです。
なぜ、それをストレートに玄侑氏は、言葉として出てこないのか?

誠実に自分の信仰を説明するのが宗教者の務めなはずです。残念です。
この本には真実がある。 ★★★★★
 スマナサーラ氏は言葉がきついところがある。それは他の著でも御自分で言っている。

玄侑さんは若いので、芥川賞を取ったにも拘わらず、仏教的なことでは聞き役になっている。残念。本物の仏教を「勉強」して頂きたい。

この本でも「新」発見があった。[1]「瞑想によって体験しないことは死によっても体験しない」(187頁)。すごいと思った。瞑想し死を体験することでおびえたり、震えてしまうことがあるという。しかし、「瞑想する人はそういう体験をする」がそれでも、瞑想をやるという。死以上のものが瞑想にあることの証左である。

[2]しかし、「今も生まれ変わってい」ることに気づいた人は、「死の恐怖」はないという。「一瞬一瞬死んでい」て、一瞬一瞬み生まれているという。これは、比喩でも文学的表現でもない。事実・今・ここで生起している事実だという。これは古東哲明(広島大学)氏もその著書で主張している(『〈在る〉ことの不思議』『現代思想としてのギリシャ哲学』ナド)。


 一見すると、非常識・意味不明の対談のようである。そう読んでしまうのは、その人が見えている世界・認識している世界で(から)モノを考えているからだ。先達の言葉に真実があることには思いも寄らない。しかし、この本には真実がある。
長老の勝ち ★★★★★
スマナサーラ長老と著名人との対談は本書も含めて
3冊読みました。養老氏>立松和平氏>玄侑氏の順で
話がかみ合っていて面白かった印象です。
仏教から遠い人の方が(養老氏は特殊だとは思いますが)
よくわかっているという事実が興味深かったです。
玄侑氏はやりこめられた印象(^^;)。
まあ、身内には厳しく接しられたのかもしれませんが・・・。