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考えるヒント (文春文庫)

価格: ¥590
カテゴリ: 文庫
ブランド: 文藝春秋
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小林秀雄という人の波長 ★★★★★
評論集ー(考えるヒント)と言う題名を、小林自身が付けたかどうかは知らないが、題名は余りいただけないと思う。文を書き連ね、それを衆人に発表するという事は、ある意味で、自分の裸を見せるという事でもある。ある物事の洞察は、その人自身の知的な切れ味を、正直に曝け出しているからで、この小林の評論は、彼の思考というより、彼の心の働き、動き、理解、類推、同定、飛躍、そう云う諸々のものが、露わになって居る。小林の凄さは、その批判的精神、物事の奥に分け入る嗅覚とでも云う外ない。彼が、彼以外に真似の出来ない、刺激的思索を示すのは、小林のみずからの内観、その深さにある。この評論集を、穴の開くほど読んだとて、恐らく、「考えるヒント」には成らないであろう。思索には、その人だけの、波長がある、その波長を無視した所に、本物の思索は成り立たない。

この評論集をジックリ舐めるように見て行くと、そこには、小林秀雄の心の旋律とでも云うほか無い、音楽を感じてしまうのだ。この音楽は、楽器こそ要らないが、確かに、人間の感受性の奏でる音楽でもある。プラトンの「国家」や「ヒトラー」や、個々の文を、どうこう言っても始まらない。単純に、言葉が理解と結び付いて居るとするのならば、その理解は皮相的なものであろう。真の理解は、恐らく言葉の次元では満たし得ない深さに在る。小林の真価は、この鋭敏な探究心の奏でる音楽で合って、如何なる人も、この心の音楽の奏で方、内面から流れ出る旋律を感じる聴覚と、言葉に秘められた感じる力が身に付けば、小林秀雄の評論集「考えるヒント」の最大の目的は、達せられたと云うべきだろう。

小林秀雄は、単なる評論家では無いのだろう。彼は、一種の独自の哲学者とでも云って好く、哲学者とは本来、孤独に耐え、思惟の冒険をする人の事だ。もしも、人間が知的な世界を、内に持たないとするならば、人間は、どんな孤独にも、耐え得ないだろう。若い時代に、その様な世界に触れて知ることが無いならば、幾ら金と物に不自由が無くとも、その人生は精神的に貧しいものだ。世には幾多の「小林秀雄論」があるが、幾つかのその論を読むと、噴飯物の内容であったり、どこかで、焦点がぼけていたりする。こと、思索家に関しては、その書き連ねた著書が全てだし、著作こそが本質を物語るはずである。

物事の仔細に分け入る方法を、彼は誰に習った訳でもあるまい。彼が、目の前にある対象を、理解しようとして自らの心に分け入った、その道こそ小林の批評の本質なのだ。彼が、持ち出す「プラトン」や「ベルクソン」「本居宣長」にしても、心の趣くままに、それに向ったのであって、読んで面白いから夢中に成ったのに過ぎない。どうやら、小林は、読む事の達人であったらしい事がハッキリした。物事を真に知るとは、内面化への道であり、対象を深く掘る事である。殊更、外部から仕入れた知識の次元で、理解したと錯覚する事とは本質的に異なるものなのだ。自らが思索し抜いた事柄を正直に書くことが、批評の本質になることを信じたいものだ。
批評家の心意気 ★★☆☆☆
何故、本書を選んだかというと、
「批評」の考え方に触れたかったから。

批評家だけあって、文中の言い回しは、そのまま使えるほど。

ある男のコトを、"つまらないヤツ"と言うのに、
随分と煮詰めた言い回しをする。


小林秀雄さんが極端に大きく考えたコトについて、
極端に小さく分解して返す、中谷宇吉郎さん(物理学者、随筆家)の返答は、
ある種の思考法として、アイデアが詰まった時、突破口になるかもしれない。


「意識的なものの考え方が変わっても、
意識出来ぬものの感じ方は容易には変わらない」という著者

ブログをやっていたり、批評や評価文に興味がある人は、
「批評」の項目だけ読んでもイイ

それ以外にも、批評に触れている部分は下記

P.36
「嫌いという感情は不毛である。
侮蔑の行く道は袋小路だ。」

P.48
「批評家は直ぐ医者になりたがるが、
批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。」


批評家の条件
* 批評的気質
* 経験

以上をベースとして、「他人への讃辞」

P.200
「批評とは人をほめる特殊の技術だ」

という名言に繋がる。

興味があれば、続編もどうぞ
* 「考えるヒント〈2〉 (文春文庫)」
* 「考えるヒント 3 (文春文庫 107-3)」
* 「考えるヒント 4 (文春文庫 107-5)」
及ばない域 ★★★★★
飾らない文章で、軽快に思考が展開されている。
しかし、どうしてこうも深く考えられるのだろう。

提起された問題も、彼の思考にかかれば
重要な問題に思えてくる。

今の自分にはどうしても及ばない
思考の域を感じることができた。
ザックバランな小林が味わえる貴重な書 ★★★★☆
普段は難解な評論を書く著者が、一般読者向けに"モノの考え方"を気儘に綴ったエッセイ。「メールツェルの将棋指し」と人工知能の関係から語り始める辺り、本書の性格を表している。本作品は好評だったようで、その後シリーズ化された。

一貫して述べられるのは、社会の巨獣性、社会の通念・イデオロギーを疑う"常識"の大切さ。文学に対する率直な思惟。時代は変れど、変らぬ人の心。機械・効率よりも心性が大事。論理を弄んでいるように見える著者が、実は現実を重視している事が窺える。「**」主義と言う固定観念を唾棄している事も分かる。「平家物語」、「ヒットラー」を語る辺りでは、いつもの思想論・文学論の香りがするが、概ね平易な表現を心がけているようだ。「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」等の逆説的言辞も味わえる。「福沢諭吉」の章は、詳細な論考で福沢の明察振りを浮き彫りにして秀逸。後半1/4程度は、主に自然・伝統を題材にしたエッセイになっており、これもまた一興である。特に「青年と老年」が面白かった。最後に「ネヴァ河」と題して、ドストエフスキーについて語る。

これらが、ポー、ソクラテス、プラトン、サルトル、井伏鱒二、本居宣長等を自在に引用して語られる。小林氏は読者の理解を深めるため、大事な箇所はワザと分かりずらく書いたと言われるが、個人的には本書のような素直な物言いが好きである。しかし、「のらくろ」の田河水泡氏が著者の義弟とは驚き。文士劇への言及等気取らない著者の姿が垣間見られ、小林秀雄の入門書として格好の本ではないかと思った。
なぜ、小林秀雄は乗り越えられないのか。 ★★★★★
 小林秀雄の批評スタイルは、ある作品を前にしてその形式や歴史的意味ではなく、その作者の美意識や人間そのものを語ろうとするものである。勿論、会ったこともない故人達(=ソクラテスやドフトエフスキー、福沢諭吉にヒットラーまで!)の心理なんて客観的に判別することは不可能であり、「私はこう見た」という自分の思い込みと鑑識眼を特権化したスタイルであるともいえる。実際、「こう見た」という単純な結論をグルグル迂回しながら書くので、美文ばかりが読む者の頭を流れて、内容はあまり記憶に残らない。しかしこれは、何度でも読んで楽しめるという思わぬ効用を読む者に与える、ということだ。

 下手な人間がやると嫌味にしかならないこのスタイルは、多くの模倣者を生んだが、後継者は生まなかった。それは、小林の批評家としての眼が卓越していたからである。宣長を論じながら殆どソシュールみたいなことを書いている「言葉」、フロイディズム批判と(武田泰淳的)司馬遷観が力技で錯綜する「歴史」、現在流行しているアニメ論と較べても卓越したディズニー分析である「漫画」、など本書所収のエッセイには読み応えのある内容のものが多い。

 「世間は新事件と新理論を捜していて、青年なぞ必要としていないのではなかろうか」

(=ヨット好きが高じて太平洋単独横断を敢行した堀江謙一に対し、何千回も「なぜ、こんな冒険を行ったのか」と繰り返し聞く世間を評して。「青年と老年」より)

 こんな名フレーズが満載のこれらのエッセイは、40年経っても全く古くなっていない。なぜなら、小林が書こうとしていたのは、人間が普遍的に持っている、何百年経ってもそう簡単に変わらない性質のものばかりだからだ。そして、彼が名人芸で書き出す普遍性というものは実際に結構的を得てしまっているだけに、単に新たな批評スタイルによって表層的に乗り越えられるものではない。そんな試みは文芸批評という死に絶えて久しいジャンルで細々と行われ続けられるだろうが、もはや陽の目を見ることは決してないだろう。なぜか。小林秀雄の文明批評が既に古典に成りかけているからである。そして、古典というのは常に新しい。