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モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

価格: ¥546
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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「常なるもの」とは何か。 ★★★★☆
『無常という事』の最後にある、現代人が見失った「常なるもの」とは何なのか。これを理解するために何度も読み返しています。本文の記述によれば、常なるもの=変わらないものは、過去あるいは歴史です。これに対して無常とは人間の置かれる一種の動物的状態であると表現されています。

「思い出が、僕らを一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。」

「上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。」

この上手に思い出す例として、冒頭に書かれた「一言芳談抄」のなま女房の文章を比叡山で思い出した時の感覚が語られています。

「僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。」

こう読んでくると、「常なるもの」は何かと問うのではなく、「常なるものを見失った」とはどういう状態かと問う方が答えを見つけやすい気がしてきます。歴史や自分の生きてきた過去を見失って、刹那的に今を生きている現代人の状態を言っているのでしょう。これで正しいのかどうか自信はない。難問です。
「批評」と「文学」の境界について ★★★★★
 小林秀雄の芸術批評スタイルは、作品の印象や形式を云々するのではなく、その作者の「美意識」(=この本では「かなしさ」を多用)を扱うものだ。勿論、この本で扱われている西行や雪舟、モーツァルトなどはその伝記的史実自体に謎が多いのであって、古典的作家達がどのように自分の作品を意識していたかなど、正確に解かるはずもない。

 小林秀雄もそんなことは百も承知で、むしろそのような批評の対象とスタイルを選択することにより、「批評すること」の不可能性に自己言及してみせるのだ。具体的には、歴史やアカデミックな定説などを堂々と無視して、「私はこう感じる」「私にはこう見える」「この作品とひたすら向かい合ってこう感じた」という、「私」の鑑識眼のみに立脚した文章を書いた。批評家は偉大なる作品を前に、ただ「作品を見ること」しかできないのである。(「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」(「当麻」より)。)

 そう考えると、この作品集の中に彼の骨董との戦いを描いたものが出てくる理由も理解しやすいだろう。専門家の書付を参照しつつ「良い」「ホンモノだ」と思って買った骨董品が、あっさり贋作だと判明する一喜一憂に、彼は「作品を見ること」の戦いを論じてみせたのだ。逆にいうと、「作品と向き合った体験」だけを最後に語るために、徒然なる文章をグルグルもってまわって書くので、実は書いてあることの殆どは余程のファンじゃないと頭に残らない。これは何度でもこの本を味わえるということだ(笑)。

 こういう批評スタイルに案外似たことをやっていたのが、彼とほぼ同時代を生きた米国のモダニズム美術批評家のClement Greenberg、そしてもう少し後の世代だが、若き日のSusan Sontagもそうだと思う。彼らは「美そのもの」を語ることにトライしたが、結果的に彼らの美術批評は「そんな美しさが判別できる私=書き手」が特権化されざるを得ないような文章だった。(例えば、Sontagの「Notes on Camp」では、何がCampかはっきり判断できるのは筆者だけだ。)

 もちろん小林秀雄もそういう陥穽に落っ込ちているが、彼の場合は美文家なのと、特にこの本の場合は題材がどれも日本人が好む平家物語や西行だったりするので、そこが日本人読者にとって儚い趣きを与えてくれる。こういう題材選択や、「見ること」「書くこと」に「自己言及」する身振り自体が、ある種非常に「文学的」なのだが、この点で彼の「批評」は日本の文学史の中で最も「文学的」だったのだと思う。
日本にも本物の評論家がいた ★★★★★
小林秀雄の書いたものは勉強にならないものがない。

「核心に迫る」という言葉があるが、彼ほどこの言葉の似合う人はいない。

また彼の評論には、現代の評論家たちがどこかに置き忘れている、
品位と読み手を引き込む知的探求心が備わっている。

日本の評論(評論家たち)は元来、エッセンスをつかむために、
エッセンスの周りにこびりついているカスのようなものをこすり集めて、
得意気に(或いは澄まし顔で)それらを振り回すだけのものが多い。
読後、「だから何ですか?」と執筆者に直接問いたくなる評論が実に多い。

そんな中、一足飛びにも二足飛びにも作品の本質に迫ろうとする小林秀雄の
評論は読んでいて、時に難しいが、実に気持ちが良く、爽快さ・痛快さすら感じさせるものもある。

本書は短編集であり、小林秀雄入門に最適な一書。
読書家のみならず、あらゆる芸術・学問を愛好する人、志す人に小林秀雄を読んでもらいたい。

言葉の重み ★★★★★
今でも(月並みですが)文章や言葉の力、というものに気付かされた最初の書であったような気がしてます。あたかも年老いて節くれ立った松の木の枝振りを目で辿っていくような錯覚/幻惑を感じます。モオツァルトの一枚の写真から展開するくだりなどは、読者は一体どこに連れて行かれるのかという不安感さえ覚えます。その陶酔感が忘れられず手放せなかった時期が痛いように懐かしいです。どう書いたところで本書に近づける訳ではありませんが、やはり文学的にはひとつの金字塔といえるのではないでしょうか。
芸術論の精華 ★★★★★
20年ぶりに読み返してみて、その密度の濃さに感心した。ゲーテ、ベートーベン、ワグナー、ニーチェ、ヴァレリー、スタンダールなど芸術家の話を、興味深くに取り入れながら、モーツアルトその人の芸術を浮かび上がらせようとしているかのようだ。文章の巧みなこと、はなしのほかで、後代の批評家がかわいそうになるほどだ。エセーとは文章による芸術だ、と痛感させられる。だが、やっぱりこの人は個性が強烈過ぎて、この人の著述から、テーマになっている芸術家や作品が、ありありと浮かんできたためしは無い。本作品に限らず、「平家物語」だろうと「西行」だろうとそうだ。著者の作品は見事すぎるぐらい見事だけれど、どういうわけだろう。本当に、著者はモーツアルトを聞いてこんな風に感じたのだろうか。するとやっぱり「他人をダシにして己を語る」ということなのか。それは余りに品が良くないので、そうは思いたくない。モーツアルトは「オペラだ」という河上徹太郎の言い分が、少なくとも「対象」には合っている。本書は、どれも珠玉の傑作ぞろいの文庫本だ。