インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

「悪」と戦う

価格: ¥4,603
カテゴリ: 単行本
ブランド: 河出書房新社
Amazon.co.jpで確認
弱者を装う悪 ★★★☆☆
村上春樹の描く悪には、人間の持つプリミティブなエネルギーを感じますが、この作品で描かれるカッコ付きの悪は、むしろ市民社会の倫理と対峙するものです。

口達者な長男ランに比べ、言葉の発達の遅い次男キイを心配する、作者と等身大のお父さん。
3人は顔面に形態的な奇形のある幼女とその母親と知り合います。
母親は「私は悪と戦っているのです」といいます。

さあ、ランちゃんの冒険のはじまり、はじまり!
世界を壊そうとする悪に、大変、弟が拉致された。悪と戦うには幾つかの試練を経て、世界から戦う資格あり、合格!と認められなくてはならない。いきなり数歳年くってるラン。(でもまだ子供)後見役は不思議なお姉さん、マホ。
最初はゴミの分別です。はい、よくできました。市民生活の秩序を守りました。
次の三つはちょっと過激。でも合格。これから読む方のために詳しくは書かきませんね。
愛されている素直な子供が、こんなのへんだよ、という自然に育まれた倫理感に正直であったことが
合格につながったみたい。可愛そうな恵まれない相手が、たとえ自らの命を張って脅してきても、それが切羽詰った切ないお願いであっても、屈しないラン。それを世界は良しとした。自らに理があると信じれば、人ひとり死んじゃっても仕方ないか。
さあ、いよいよランと悪との戦い。悪の世界はどうやら子供の死者の住む場所。
世界を堪能する前に死んじゃった、生まれる前に死んじゃった子供たちの世界。(大抵、大人が悪いのだけど)そこに、キイもミアも拉致されてた。なんでここが悪? 読者繭子さんには分からない。だから括弧付きの悪なんだね。
ここでもランは積極的に戦わない。というか、戦い拒絶。相手は可愛いぬいぐるみ。両親に愛されて育ったランは、ぬいぐるみをずたずたに裂いたりなんか出来ない。(本人がそう言う!)そこでマホがランを助ける。壊れかけていた世界も修復。これじゃ最初からランを巻き込まなきゃいいのにさ。マホはじつは、あ、これもこれから読む人のために伏せとこう。

無事、いつもの世界に戻ったラン。病気だったのね。
ランの戦った(?)悪と、ミアのお母さんの戦っている悪って、同じものかしら。
ランの戦いではいつもミアが悪から囮に使われていた。お母さんにとっての悪も、ミアを媒介にして向き合っているものらしい。ミアは奇形であることで、キイは言葉を持たないことで、悪と戦っているんだって。
でも、二人を通じて悪と戦ってるのは、大人の方だよね、きっと。

読んでもよく意味が分からなかった物語なのに、よく感想が書けました。
繭子さん、合格! さあ、悪と戦うぞ!
誰に向けて書かれた作品なのか ★★★☆☆
ただの 悪 ではなく「悪」であることがミソなのかもしれない。
語り手である小説家の夢想の中で、少年に変身した幼児ランちゃんは、人類に危機にさらされた動物たちのために殺人することを求められたり、いじめに加担したりいじめられたり、最後には愛されてぼろぼろになったぬいぐるみを引き裂くことを求められたり。これは作者が自分の子どもにプレゼントした、既成のヒーローものではない戦いの物語なのかもしれない。
最初と最後の小説家の語りは、ケストナーさんの少年小説の前説を思い出させて割といい感じだったり、かつてのあくどいまでの既成のキャラクターの引用も抑えられている。そして、読みやすい。しかし、読み終わって何を読んだのかという思いが残るのはなぜだろう。あまりにも、現実の戦い、世界と切り離されているからだろうか。
ある意味でこれは、遅れてきたマンガであり、ファンタジーなのではないかと思う。そしてそれを喜ぶのは、ギョーカイ人とそのファン層、予備軍かな、とちょっと意地悪な気持ちにもなった。「親バカ」小説という見方も。
とてもおもしろかったです。 ★★★★★
月並ですが、とても楽しく読むことができました。
ひとつだけ残念だったのは、あまりの読みやすさとおもしろさで、一時間ほどで読み終わってしまったことです。
もっと長くこの物語の世界に浸っていたかったです。
ところで最近、パラレル・ワールドを扱った作品をちらほら目にします。
たとえばこの作品の他には、現在、朝日新聞に連載されている、川上弘美さんの『七夜物語』とか東浩紀さんの『クウォンタム・ファミリーズ』です。
川上さんの問題意識はまだわたしには分かりませんが、東さんの作品に関しては、『存在論的、郵便的』からの問題意識が作品に反映されているように感じられました。そして、その問題意識とは、いわゆる「現代思想」からの流れを汲んでいると考えてよいと思います。
同じように、高橋さんの本作品にも言葉の外部という亡霊が描かれます。
わたしたちは、言葉(とイメージ)の世界に生きている、と言うことができるかもしれませんが、この言葉の世界には、わたしたちのすべての経験が明確に言葉として記録されるわけではありません。
わたしたちは日々、言葉に記したくない残りかすを生み出し、そしてそれらを言葉の外側に排出しています。しかし、言葉の外部に押し出されてしまった経験にも、忘れないでほしいというつよい気持ちがあります。そしてその結果、この気持ちが外部から内部へと戻ろうとする運動が生じます。
おおざっぱにいえば、「悪」とは既成の秩序を乱す力(秩序を維持するための、いわゆる「必要悪」もありますが)、なのかもしれません。『「悪」と戦う』においても「悪」はわたしたちが生きている「世界」を壊してしまう力としてわたしたちの、というか物語の世界に働きかけます。
主人公の男の子は、さまざまなパラレル・ワールド(想像界といってもいいかもしれません)を通じて「悪」を経験します。
こんな「悪い」世界はなくなってもよいのかもしれません。しかしそれでも男の子は世界を肯定します。
そしてそのさきに主人公は「悪」と対面?します。
その「悪」とはわたしたちが不用意に捨ててしまった記憶(イメージ)です。
「悪」が求めるものは記憶の場所です。「悪」は言葉の編み目に真っ黒な穴を開けます(ラピュタのような「ぐるぐる渦巻く雲」は現実界でしょうか、そしてその上の大きな哺乳瓶は想像界的でしょう)。主人公はその穴を適切に修理してあげなければなりません。そしてその修理の場に、イメージとしての「悪」にひとつひとつ具体的な言葉を与えてあげなければなりません。「悪」との対決とは「悪」に言葉を与えるための手続でしょう。それは対話と言えるかもしれません。(263ページのマホさんのことば、「あれでよかったの。イッツ・オーライ。『世界』は直ったから。元に戻しといたから。それから、一部、補修もしといたから。しばらくは大丈夫。...」。このことばが表しているのがそのことでしょう)。
したがって、この物語が夢落ちで終わるのも偶然ではありません。
ながながと駄文を重ねてしまいましたが、この物語の素晴らしさは、何よりも語りの面白さです。
物語の中に浸る快感こそが語りの根源ではないでしょうか。
単純に読んでいて楽しい、そんな楽しさを感じさせてくれる作品でした。
「悪」との戦いを描く部分が抽象的過ぎる気がする ★★★★☆
 やっぱり著者の想定する「悪」が何かについて考えないと、この小説を読んだことにならないと思うんで、ザッと一読した段階だけどぶっちゃけで私の仮説を書く。未読の方は以下を読まないほうがいいかも。
 まずどうしてランちゃんが「悪」と戦う戦士になるのかって点だけど、重要なのは彼が言葉の発達のチョー早い3歳児であること。しかも砂場遊びに「いみ」なんてないことを知っている(p48、p57)、オトナ世界とコドモ世界の両方に足場を持つ者で、だからこそ彼は言葉の発達の遅い1歳半の弟にして「世界の鍵」(p103)たるキイちゃんとコミュニケートし、オトナに橋渡しする媒介者となれる。
 もう一つヒントは、ランちゃんの言語世界の形成に影響を与えたアニメや絵本の中で、どうやら宮崎駿が特に重要であるらしいこと(他にもいろいろあるが、p9以降を参照)。宮崎で「悪」と来れば、もちろんマンガ版『風の谷のナウシカ』のラストを想起すべきだろう。
 ここまででもかなりのことが分かって、まず戦いが「意味」にかかわるものであるらしいこと。言葉を習得する以前、つまり人間になる以前の人間の状態に「鍵」があるらしいこと。そして結末は「悪」を打ち倒すのではなく、「悪」とともに生きることの選択となるだろうこと。
 さらにヒントがあって、ランちゃんの戦いを助けるマホさんがクライマックスで「悪」と交わす言葉。「悪」の「どんな権利があってぼくに説教しようってんだよ! 生きられなかった者たちに対して失礼じゃん」という恫喝に、マホさんは「ばーか! あたしなんか、生まれなかったもん。ユーと対等でーす!」と応酬。すると「んじゃあ、こっちの仲間じゃん」(p260)と「悪」。つまり「悪」って「生」の側にいない、端的に言って「死」に関わる何かだということになる。
 ここから先はちょっと補助線を使わせてもらうが、私はこの小説はつまるところニーチェvsハイデガーという話ではないかと思う。「意味」は「死」と向き合うことから生じる。だからランちゃんは「いみ」はないと言う。世界の「鍵」は、「死」を意識し「意味」に縛られる以前の状態にある。だから「悪」はキイちゃんを奪おうとする。
 ではマホさんはなぜ「悪」の側にいないのか? 私の考えでは、「悪」が「死」に由来するのに対し、マホさんは「未生」にある。「死」がブラックホールなら、「未生」はホワイトホールと言うべきか。キイちゃんが超人で、ランちゃんはツァラトストラっていうか。
 補足的に言えば、冒頭部の語り手「わたし」の奥さんは、かなり超人に近い人として設定されている。高橋源一郎は、アンナ・カリーナみたいな女性に振り回されるのが好きなんだと思う。
変質者の言い訳みたいな気持ち悪さ ★☆☆☆☆
設定が面白そうなので買って読んだけれど、得体の知れない「気持ち悪さ」が残った。親子の会話や大人と子供の会話が妙に薄っぺらくて気色悪い。なんだろうか…。

それはまるで「変質者が子供を誘う手口」に非常に似た巧妙さが感じられるからかも知れない。
変質者が少女を殺害する「ラブリーボーン」という作品があるが、その「犯人の言い訳」に近い妄想が、この作品から漂っているのは、なぜなのだろうか。

「わたし」が、だれもが避ける少女を「美しい」と見とれた場面から、なにか妙なしこりが残り、その後、少女が美しい顔を整形で醜くした場面に至ると、まさに、変質的犯行を正当化する犯罪者の心情を代弁しているのだろうかと、この作品の成り立ちの異常性に寒気がするのはなぜなのだろう。

「善悪」とは何か、という社会的人間の根源の価値観を、わざと歪ませることで自由な言論を演じたがる安っぽいサヨク的な薄っぺらさだけならいいが、もっと「病的な嗜好性」を覆い隠しているような、嫌な感じが漂っていて、貴重な時間を割いてまで読む価値があるとはとても思えない。