改めてブレランを好きになった
★★★★★
デカードは果たしてレプリカントなのか? いや,ロイこそが本編の主人公なのではないか?
───そんな議論に対し,例えば監督がそう言っているからとか脚本家がそう言っているからとどちらかに決めるなどと言うのは野暮のする事だ.
もっと言えば,その映画を真に愛していないからこそそんな愚行に及べるのである(例えば,謎に満ちた映画「マルホランド・ドライブ」の解釈を監督から聞き出したと言って悦に入っていた某左翼系映画評論家がいたが,アレなどはそうした野暮の最たるものである).
むしろ本当にその映画が好きならば,終わりの無い議論や思索に耽り,やがては制作者が意図しないような解釈をする程に,その映画は味わいを深めて行く.
そのお手本がここにある.本書の内容は,明らかに監督や脚本家の意図から逸脱しているが,しかし美学(エステティクス)と言う学問はそう言う物である.
ある作品,ある事象,そこになぜ自分は魅かれるのか? と言う探求が美学であり,そこではその作品や事象を作った人の意図なども絶対では無い.
そしてまた,その映画に魅かれた人の数だけ,本書に匹敵するようなボリュームの思索がある筈だ.
わたしは改めて,あの映画を繰り返し見たいと感じた.
批判が多いようですが…
★★★★☆
加藤氏が映画史的な記憶と知識を本書に惜しげもなくつぎ込んでいるのは、『ブレードランナー』がそれだけの徹底した分析に値するフィルムであると判断しているからであって、単なる酔狂ではありません。もし本書の記述が学問的意匠で飾られた過剰な読み込みとしか感じられなければ、それはその人が映画『ブレードランナー』を主観的印象論で済ますべき駄作と過小評価しているにすぎない。
西洋の映画理論を当てはめただけという粗雑な批判がありますが、『ブレードランナー』は紛れも無いアメリカ映画なのだから、アメリカ映画史と映画研究の文脈を参照するのは当然です。そのうえで加藤氏の分析のオリジナリティーの有無を問うべきであって、単に外国の理論を借用しているから駄目というのでは余りに水準が低い。
なお加藤氏の文体は凝った修辞を多用しているものの、主張そのものは大変明快です。
映画論・記号論的観点から読み解く
★★★★★
「ブレードランナー」を映画論的視点から解説する本。簡単な解説ではなく、あくまで現代ハリウッド映画の蓄積してきた記号論を中心に作品を読み解くという点で、他になく、非常に意義のある解説書となっています。もうブレードランナーについては知っている、というBR好き諸氏にもお勧めです。
私自身、スニークプレビューや当時のワークプリント、また監督へのインタビューや英TV番組などで、ブレードランナーについてはよく理解していたつもりでした。しかし、そもそもハリウッド映画が持つ独特の記号的演出については無知だったため、本書を読んで目から鱗が落ちた感じです。
たとえば、冒頭部で表示される目は誰の目について(このスタイルの演出は古典的ハリウッド映画において定石だそうです)、観客は古典的解釈ではその後のシーンで中央に座るホールデンであると思われます。しかし、彼はすぐに殺されてしまう。ここで、観客はこの物語の主人公が誰であるかわからない、「宙ぶらりん」の状態にされるというのです。果たして、この物語の主人公は誰なのでしょう?指摘されて初めて、この物語の「真の主人公」を理解できました。同時に、そこに気づくまで自分が「宙ぶらりん」の状況だったことに理解が至ったわけです。
BRをよく知る人なら、「目から鱗」請け合い。お勧めです。
う〜ん....
★★★☆☆
こんな視点もあるのか、と関心すると同時に、一方的な解釈が延々と、続くので、そのうち、リドリースコット監督の意図が知りたくなりました。ここには、当事者の言葉(例えば監督やプロデューサーのインタビューなど)がひとつもなかったのでいまいち、解釈にリアリティがないというか、ナント言うか。ほんまカイなって感じです。ただ、普段あまり本は読まないので、良く分かりませんが、こんな独白のようなジャンルが本の世界にはあるんですね、きっと。勉強になりました。
脱構築の映画批評
★★★★★
映画の物語を支えているデッカードとロイ、人間とレプリカントといった二元論的、メロドラマ的対立に、観客がどんだけ足をとられているかをプラグマティックかつ思弁的に論証した快著。脱構築的映画批評の金字塔。この本の鋭い脱構築は、定義上、未来の次なる脱構築へと開かれているのだから、この本が「序章」と命名されているのは当然のこと。その辺が全然わかっていないIQの低い輩がいる。