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豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日

価格: ¥2,100
カテゴリ: 単行本
ブランド: ミネルヴァ書房
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賛否両論あるが、深く考えるための題材として本書を読むべき ★★★★★
小学校の教育の一環で豚を飼育したクラスと新任教師の3年間の記録。最終的に、飼育してきた6年生の卒業後、豚をどうするのかをクラスで様々議論し、結果として豚を食肉センターで処分することになる。その過程はテレビでも放映され、映画にもなった。

本書は、卒業&テレビ放映から10年後に、当事者の黒田先生がその当時のことを振り返って書いたものである。その教育自体に関しては、賛否両論いろいろあるが、本書を読むと当該教育に賛同する意見も否定する意見もよくわかる。その意味で、客観性を持った「記録」として捉えることができる。

否定する意見は、「解説」にもあるように「(小学校の)教育とは、結論がわかっていて、そこに子供たちを導くものであり、結論もわからず始めて子供たちに辛い思いをさせるのは教育ではない」という記述に代表されるものだろう。確かに、食肉センターでの処分は、混乱の中での時間切れの結論であった面もあり、批判は妥当であろう。

一方、何が正義か解のない問題に対し、逃げずに真剣に取り組み結論を出した、という先生と子供たちの経験は、「普遍主義の不可能性と不可避性(宮台真司著:日本の難点 (幻冬舎新書))」に陥っている現代を生きる中で、どこかで活かされてくるのではないかとも思う。似たような正義に関するマイケル・サンデルの講義「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」は、あくまでも議論だけなのに比べて、ここでは結論を出し実行している点でものすごくリアルでシビア(小学生には荷が重過ぎるかもしれないが)。

黒田先生の教育が良いとか悪いとかを、簡単に結論付けるのではなく、深く考えるための題材として本書を読むべきであろう。特に教師やPTAを含む学校教育関係者には読んで考えていただきたい。
一回性の出来事から何を汲みとるか ★★★★★
 本書は、1990年、小学校教員となったばかりの著者が、学校で1匹の豚を飼って食べるという企図の授業を巡って、小学校4年生から6年生へと成長する間にある32人の生徒達との間で生じた出来事を10年後から振り返ってまとめた本である。

 全体は「豚が学校にやってくるまで」「豚のいる学級」「豚を通して社会を見る」「『命の授業』作り」「豚は何のために生まれてきたのか」「最後の話し合い」「本当に最後の話し合い」「本当の学びとは」の全8章からなり、全体を振り返る「話のはじまり」と、この体験に一区切り打つことを述べる「おわりのはじまり」、またこの体験を記録・テレビ放映した西谷清治による「解説」からなる。
 読み終えてようやく深く一息つけた。色々なことが1回性の重なりからなっており、鳥山敏子の読書、コンピューター学習研究への反動、父親の死、1990年代の時代性、4年生から6年生へと至った生徒達、入院、動物園、テレビ取材、学校の教員、当時の3年生、生徒の両親たち、などが積み重なって、そのために、クラスでも、地域でも、学校内でも、新聞でも、テレビでも、その度に賛否両論が寄せられたことも本書内に書いてある。ただ、子どもたちもかけだしの教員も、この1回性の命を深く生きた、ということは良く分かった。また、この授業を巡って、化学調味料、調理実習、食材考察、解体工場見学など、様々な工夫もあったことを知れて良かった。

 1つだけ書きとどめたい。この授業の判断を巡る背景的知識として知っておいて良いと思うのは、牛の特徴の名前を自らの名前として生きながら、死んだ時には畏敬を以て牛を食べる民族は実際にいて、アフリカのヌアー族の話は日本語でも読めるということである。また狩猟採集漁労民には食物と同じ次元に降り立つ人間の姿がしばしば見られる。こうした人類史の背景を知って見ると、この授業を巡る議論が、また違った営みとして見えてくるのではなかろうか。
テレビ授業の危険さ ★☆☆☆☆
この実験授業についての情報量は当時放送されたテレビのドキュメンタリー番組が圧倒的に多い。そこでわかるのは、この授業が当初からテレビカメラの前で、つねにカメラを意識しておこなわれていたということだ。つまり、世間に対して、大胆で実験的な教育を行っている熱心な教師、それに応えている生徒たちを教室においてドキュメンタリー化すること。これがこの実験授業の目的だ。

目立ちたがり屋の若い教師とカメラを意識して、知らず知らず演技してしまう子供たち。

他の書評にもあったが、この先生は、「命の大切さ」と「食物の大切さ」を混同している。しかも意図的にだ。この混同を生徒たちに押し付ければ、生徒は混乱することが目に見えている。そして、その混乱を実験授業の目玉としてカメラに記録することを計画している。

他の農業教育などと同じく、純然たる「食肉教育」として行うのであれば、通常半年か1年で食肉化されるわけだから、そのように計画し、実行しなければならない。情が移らないように複数頭が理想だろう。それを一頭だけ、ずるずると3年も飼い続け、ペットとしての豚に情が移るようにしむけた。そういう土壌がないと食肉化と子豚の命の葛藤に悩む子供の絵は撮れない、スキャンダラスな実験授業は演出できない。

結局、3年間も飼い続けることになったのは、子供たちがペットとしての豚を到底殺せなくなって、持て余したことを意味している。2年目で強引に殺せば、子供たちから恨まれる。教師は総スカンを食らう。安易に許可した学校側としてもテレビ局が入っているから世間の目を気にして介入できない。3年持ち越しになり、体重300kgにもなった豚飼育というやっかいな問題を処分するとしたら、子供たちと分かれる卒業期がよい。こうしてこの問題は処理されたわけだ。

食肉センターに移送されたことになっているが、疑問なのは、こうした衛生状態もわからない素人の飼育した豚をプロが受け入れるのかということだ。この豚を解体した食肉が出荷されたとは到底考えにくい。食肉を学校側が引き取ったのか、食べたのかどうかもわからない。単に保健所で薬殺されるかわりに、センターに屠殺を依頼しただけではないか。食肉センターだから肉が無駄にならなかったということはない。

結局、この先生とテレビ局のやったことは、命の大切さどころか、動物の命と子供のこころをもて遊ぶ危険な行為だったのではないか、たかが子豚一匹だから、子供相手の授業だから俺さえ目立てばそれでよい、あとはどうなろうと構わないという安易な考えが当初からあったように思える。


ブタだからダメなのか? ★★★★★
私はこの試みを
子供たちが真剣に立ち向かったこと、
大人の多くが思考停止している食肉をテーマにしたこと、
から評価します。

前者はコメントの必要はないと思いますが、後者について。

私たちがいつも口にしている食べ物のほとんどが命だったものです。
ブタだから良くない、野菜ならいいなんて、勝手な判断です。
子供の頃に命の大切さを教えるのはいいのですが、
その命が動物に偏重しすぎていると思うのです。
これって、命の重さを、動物とそれ以外で分けてしまうこと、
動物を食べることについて思考停止するか肉を食べないかを選択すること、
を強要していませんか?

野菜だって熱湯に入れた瞬間、米だって脱皮した瞬間あたりで
命を奪っているのです。
今の大人たちも、命を食べていることに、真剣に立ち向かってみてください。

ちなみに、ここではブタなので名前を付けることは稀でしょうが、
和牛は名前を付けるのが当たり前です。
米や野菜に名前を付けることはないですが、どの田畑で作ったものか、
生産者は区別しています。
じゃあ、あなたは真剣に考えたことがありますか? ★★★★☆
ここで何年も前に起こったことをよかった悪かった言ってもしょうがない。
こういう事実があったということ。
命に対して、生と死に対して、食物連鎖について学べた子供たちは幸せだと思う。
私は、小学生のとき祖母の家で生きている鶏を目の前で首を撥ねられ血を吹きながら走る姿を見て、夕飯に出された鶏飯はおろか1ヶ月くらい肉が食べれなくなった経験があったことを思い出した。そのとき、死とは、自分が命を頂くとはどういうことかということを真剣に考えた。
いい経験になったと今思い返すと思う。

世界で暴動やテロや食糧危機が起こっている中、いつ日本もそんなことに巻き込まれるか、いやもう巻き込まれている中で、死って?生き物の命を頂いて自分が生き永らえるって?実際に身をもっていろいろな体験できたことは素晴らしい経験になったと思う。

読んでみて、子供も先生も結論できなかったように賛否両論あると思う。
でもそこがゴールじゃなくて、それを通じて何を感じるかを考える。という意味でとてもいい本だと思う。