いつ戦争は認められ、そして兵士は何をすることを許されるのか
★★★★★
正戦論のもはや古典ともなった本書がやっと翻訳された。
冷戦は終わったが、いや終わったからこそ、正しい戦争という大問題は考えられねばならない。
本書は、その中で一つの視座を与えてくれる。
議論の前提として、正義の議論は意味がないとするリアリズムと、いかなる場合でも戦争は悪だとする絶対平和主義の双方を退け、正しい戦争と不正な戦争が存在することを主張する。
前者は、たとえそれが軽蔑にさらされたり、偽善によって欺かれたりしても、道徳というものはわれわれの心になお存在することから反論される。
後者は、戦争=地獄という観念から支持されるが、それは戦争の方法についてもまた規則があり正義があるという事実を見落としていると反論される。
前提を整えた上で、まず、戦争への正義(ユス・アド・ベルム)と戦争における正義(ユス・イン・ベロ)を峻別する。
前者は、いかなる時に戦争を始めることが許されるか、という問題だ。
後者は、戦争においていかなる手段を取ることが許されるか、という問題だ。
敵が許しがたい悪をなしているならば、あるいは我々が正義ならば、その分我々が用いていい手段は拡大される、というのはスライディング・スケールの議論である。
しかしウォルツァーはこの道を取らない。彼はユス・アド・ベルムとユス・イン・ベロを独立に扱い、開戦の状況とは独立に戦闘行為での規則は平等に課されるとする。
ユス・アド・ベルムについては、基本的には侵略された場合のみである。
しかしウォルツァーの論にはいろいろと例外も多く、敵が侵略すると信じるに足る状況での先制攻撃さえときとして認める。
また人道的介入についても、基本的にはその国で解決すべき問題としながらも、真にやむを得ない状況においては介入を率先して認める。
ここには、共同体と人権に軸を置くコミュニタリアニストとしてのウォルツァーの顔を垣間見れる。
ユス・イン・ベロについては、戦闘員と非戦闘員の区別は必須だとする。
この境界こそが、戦争を地獄から救いあげるものでもあるのだ。
戦闘員には、たとえ己を危険にさらしてでも、非戦闘員を可能な限り傷つけないようにする義務があるのだ。
しかしユス・イン・ベロがユス・アド・ベルムによって破られる場合が一つだけある。
それが最高度緊急事態だ。
ウォルツァーは「天が落ちてこない限り正義をなせ」という。その「天が落ちる場合」が最高度緊急事態に当たる。
この状況では、もし他の手段がなく、これを逃したらすさまじい非道徳に陥るような状況では、ユス・イン・ベロを破って民間人を傷つけることも許される。
細かい具体的な場合についてもウォルツァーは論じているが、それは本書を実際に読んでいただきたい。
最後に目次を記しておく
第一部 戦争の道徳的リアリティ
1 「リアリズム」に抗して
2 戦争の犯罪
3 戦争のルール
第二部 侵略の理論
4 国際社会の法と秩序
5 先制行動
6 内政干渉
7 戦争目的、そして勝利の重要性
第三部 戦争慣例
8 戦争の手段、そして正しく戦うことの重要性
9 非戦闘員の保護と軍事的必要性
10 民間人に対する戦争―攻囲と封鎖
11 ゲリラ戦
12 テロリズム
13 復仇
第四部 戦争のジレンマ
14 勝利と正しく戦うこと
15 侵略と中立
16 最高度緊急事態
17 核抑止
第五部 責任の問題
18 侵略という犯罪―政治指導者と市民
19 戦争犯罪―兵士とその上官
あとがき―非暴力と戦争の理論