インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

アストレとセラドン 我が至上の愛 [DVD]

価格: ¥5,040
カテゴリ: DVD
ブランド: 紀伊國屋書店
Amazon.co.jpで確認
追悼エリック・ロメール ★★★★☆
残念ながら遺作となってしまったこの映画においてロメールはモラルというよりも「私の許可なく二度と姿をみせないで」という主人公セラドンとアストレーとの相互契約をストーリー上は守りつつ、描写としてはエモーション=肉感的欲望を手放さないという離れ業に挑み、見事に成功している。

そのストーリー上の「契約」について言えば、それは以下のようなドゥルーズの指摘を想起される。

「ライプニッツは、欺かない神についてのデカルトの推論をかなり警戒し、これに不共可能性の水準で新しい根拠を与えている。神は戯れるが、戯れの規則を与えるのだ(略)。この規則とは可能世界は神が選んだ世界と不共可能的ならば、存在にたどりつくことがないということだ。ライプニッツによれば『アストレー』のような小説だけが、われわれにこのような不共可能的(incompossible)*なものの理念を与えるのである。」(ドゥルーズ『襞 ライプニッツとバロック』邦訳 p110)

可能世界なるものがデカルトのような推論によって本質に回収されるのを嫌ったライプニッツがロメールによって映画化されたこのラブストーリー(17世紀当時流行した)を念頭においていたというのは面白い。

さて、一見些末なエピソードのように見える登場人物による神々の説明、肉体的愛に対する精神的愛の優位などなど、映画のところどころでロメール先生による間接的授業(とはいえカメラは常に登場人物と水平に位置され、決して権威的ではない)が展開されているが、これらは映画のなかで内容としてのモラルの描写として成功している。

おそらく賛否が分かれるであろう部分は、リアリティーを無視した時代描写および自然描写であり、何よりも女装したセラドンとの和解であるラブシーンを描いたラストだ。(劇場で見た際に)場内の失笑とともに観客である自分の胸にわき上がったのは、先述したライプニッツ的なモラル=論理を守りつつジャン・ルノワール的欲望を同時に肯定することに成功したロメールの巧みさへの賛美だ。

蓮実重彦はそこにハワード・ホークス的映画装置の作動、つまり映画の自同律を見出しているようだ。たしかにその装置の作動は形式としてのモラル(この場合は映画の自同律)の展開でもあるが、それ以上にそうした形式を主演俳優同士の官能の描写と背理させなかったロメールの手腕が称揚されるべきであり、そこに彼のデビュー作『獅子座』からの一貫性を見るべきだろう。

ちなみに、フーリエ(ロメールの兄はフーリエの研究者として著名)は原作となった『アストレ』からセラドニーCeladonieという概念を抽出し展開している。この造語は精神的ないし感傷的な恋愛情念を意味するらしい。その精神的愛はフーリエの唱える共同体では重要度を増すという。

*追記:
むしろ以下のようなスタッフの証言が実は不共可能性をうまく説明しているかもしれない。
http://www.unifrance.jp/festival/report_view.php?number=657&langue=JAPANESE
「一番好きなのは、お城の迷宮のような庭園でニンフの女ボスのガラテと僕が口論をするシーンなんだ。このロケ地は最後の最後に見つけた場所なんだが、撮影段階になってロメール監督は素晴らしいアイデアを思い付いたんだ。城を出て行くと言い張る僕を引き止めようとしたガラテは、迷路の壁にぶち当たってしまう。このシーンを撮ることによって監督は、状況が硬直状態に陥り、壁にぶち当たったことと現実の動きをドッキングさせて見せているんだ。」

http://movie.felista.jp/e319.html
「私は原作を完全に自分のものにし、なんの気がねもなくのびのびと扱うことができた。ここではっきりとさせておくが、私の脚本はズカが残した脚本とはかなり異なるものである。今回、私は彼の脚本を一切活用しなかった。あとで読み比べてみて、2作に共通のセリフがたったひとつしかないことを確認してニヤリとしたほどである。とは言え、この作品を彼に捧げることは私には重要だった。」
精神性と肉体性の両立 ★★★★★
エリック・ロメール監督による、「愛とは何か」をテーマにした文芸映画。
浮気したという誤解により、恋人アストレから会う事を禁じられたセラドン。女性からの誘惑もはねつけ、ホームレスになっても命令を守り通し、恋人を女神としてまつる愛の神殿まで作ってしまう。セラドン生存の可能性が浮上するが、アストレは信じようとしない。こう着状態を見かねたドルイド僧とその姪は、セラドンを修道女に女装させ、アストレと会話できるようにするのだが・・・。
あらすじだけ読むとプラトニックな純愛物語という感じだが、映像的にはエロティシズムの漂う作品。徹底して貞節なセラドンだが、しどけない格好で眠るアストレにキスしようとするなど、肉体的な欲望も描かれる。
物語中、愛とは恋人と精神的に一体化することだと説くセラドンの兄と、多情で肉体的な恋こそ至上のものと主張する道化者の論争が展開されるが、どちらも(文字通り)迷路に入り込んでしまう。
精神性と肉体性の両立を至上の愛として描いた(と思われる)ラストの、若々しいさわやかさと映像的なおかしみが、この作品の独特な持ち味になっている。