攻撃性の諸相
★★★★★
まず第1章の「子どもの心的発達」では精神分析的な養育をした事例を元に書かれて
いる。ここでは知性の制止がどうして起こるのかといったことを検討しているのだが、
その理論構成はフロイト理論をきっちりと踏まえており、フロイトや精神分析に強い期
待と憧れを抱いている様子がよく分かる。しかし、第4章あたりから、エディプスコン
プレックスより前の時期について言及するようになり、第6章「早期分析の心理学的原
則」では超自我はフロイトが考えるよりももっと以前から存在しており、それはとても
過酷で残虐で悪魔的なものであるというニュアンスで書かれている。さらに第7章「児
童分析に関するシンポジウム」ではアンナ・フロイトの児童分析についての批判を攻撃
的に展開しており、クラインらしいな〜という印象を受ける。その後、攻撃性やサディ
スティックな心性についても扱っており、クライン学派のクライン学派らしさが徐々に
見え始めてくるのである。
この攻撃性をどのように理解し、扱うのかによって精神分析の学派が異なってくるの
で、とても重要なところであり、未だに攻撃性をどう位置づけるのかの統一見解がある
わけではない。クラインの言っていることが実際どうなのかは僕には分からないが、ク
ライン自身のパーソナリティがこの理論に強く影響を与えていることは否定できないと
思う。患者はプレイであれ、自由連想であれ、ファンタジーを転移の上で展開させる。
そして、その転移は逆転移とセットのものであり、治療者からの影響もまた同時に受け
る。なので、転移やファンタジーは患者だけのものではなく、治療者と患者の協同作品
なのだろうと思う。クラインの臨床観察では患者が原始的な攻撃性を展開させるプレイ
を多数行ったのを分析して、攻撃性の理論を作り上げたのかもしれないが、それはどこ
かクラインの攻撃性の投影を受けたものだったとも考えられる。