作品というか・・・
★★★★★
なんか、残る映画です。
プラス本人のこととか、全然知らないけど、
ラストシーンが、何でなの???って思わせる。
ジョニー・デップの「ブロウ」を見たときと同じ気持ちになった。
(ちなみにブロウはあたし市場No.1映画)
さみしいというか、何で?どうして・・・。
そんな感じ。
あと、ブロンド美人は美しい。
そんな感じ。
精神と人格
★★★★★
彼女(シルヴィア)はおそらく、境界性人格障害で、依存症だ。
精神病ということには一切触れず、彼女の生涯を描いている。
結婚したが故、夫を愛する故、夫に精神的に依存している故、執筆活動ができなくなる。
おそらく、依存症でない人には、彼女がなぜ書けなくなったのかわからないだろう。
彼女が家に招いた客人に対して、あのような態度をとったのも、夫の浮気に苦しみ、ますます壊すような態度をとるのも、境界性人格障害のなせるわざである。
夫と離れて、再び心の闇を文字にして、執筆活動ができるようになる。
依存する相手がいないから、誰の都合にも左右されることなく、心の中を表現できるのである。
「私には中身がない、空っぽ」彼女は言う。
才色兼備の彼女が、そう言うのだ。
境界性人格障害の基盤になっている症状を表している部分である。
空虚感、焦り、どうしようもない寂しさ。
誰といても、この寂しさは埋まることはない。
彼女はずっとその闇とともに生きた。
この精神障害は、傷つける行為はすべて自分に向けられる。
夫や子供たちを巻き込んだりはしない。
そうして、ラストの彼女の行動で彼女は完結したのである。
子供を巻き添えにはしないで、自分を完結させたのだ。
あ〜あ・・・
★★★☆☆
極めて普通のドラマ仕立てに焼きなおされたPlath・Myth.シルビア・プラスについては70年代のフェミニズム、テッドとシルビア両側よりからの伝記、彼らの子供及び周辺の人たちの証言、全く第三者の”意見”、残された音声、様々な文を読んできた私だが、彼女の人生の骨組みの部分はわかるといっただけの映画だし、俳優陣ははっきり言って役不足・・・天才達を表現するのには。エロール・フリン顔負け、その字のとおりの男前テッドは黒魔術や占星術を操る動物好きの気の優しい詩人で、アッシアはハッとする程の、目の前にすると気の遠くなるような混血美人であった。彼らの人生は「火のエレメントの星座の傘下にある人が陥りやすい神話を具体化した」ようなものなので、よくある話といえばそれまでなのだが、小さいソープドラマ仕立ての器には不向きであると思う。
ちなみに、今シルビアの財産管理をしているフリーダ(娘)はこの映画に全く非協力であったため、シルビアの詩全文を自由に使用するのはできなかったらしい。彼女の当時の友人はコンサルタントしたが、映画では全ては収まりきれないので、別にインタビュー記事を受けている。
題材としては星5つ、内容は星1つで中を取って3つである。
コップの中の嵐の映画化
★☆☆☆☆
ヨーロッパ人による極めて狭い世界の,極めて狭い視野故の悩みが
果てしなく続くストーリにはうんざり.
中身がないくせに,自分中心に世界が回って当然と考えているインテリ女
の心情に共鳴できる要素など逆立ちしてもなく,まさにコップの中の嵐
を映画に仕立てただけの駄作.
もっとも,グウィネス・バルトロウのファンが,彼女の姿を眺めるには
お勧めの映像ではある.
家庭と人生
★★★★☆
真実はしばしば虚構よりも小説じみている。詩人シルヴィア・プラス夫妻の物語というよりは、シルヴィア・プラスそのものの実話を映画化したものだが、最後のシーンまでたどりついたとき、果たしてこれが現実の挙動と信じられようか。わたしには真似できそうもない。グウィネス・バルトロウの自然な演技に無理がなく、自然に引き込まれる。どこにでもありそうな何不自由ない幸せそうな家庭の情景と、抗いようもなく壊されていく日常へのシルヴィアの「女の勘」の描き方が秀逸。確かアメリカ在住と思われる両親へ手紙を出すシーンのさりげなさが痛々しい。詩人でなければこのようなラストを迎えなかったかもしれない。