『悪徳の栄え』後半
★★★★★
人生の多くを獄中で過ごしたサドが、珍しく外の自由な世界にいた期間に執筆されたものらしい。
極悪非道、鬼畜ぶりではさらにパワーアップしていくにもかかわらず、印象は陰惨さよりも、陽気さ、自由と開放といった明るさが薫る。また、冒険譚の様相も呈してくるところだ。
ときには、あのジュリエットが、柄にもなく「人生を花でいっぱいにしたい」という(すでに血に染まった悪の花でいっぱいですが)女らしいセリフなども飛び出す。
その反動か、サドも少しはじけすぎたのか、勇み足なところもでてくる。2日弱で3人で1700人も拷問しては殺してしまったという鬼畜の宴はやりすぎ。
ともあれ、ジュリエットの類まれなる知性が存分に発揮されるのも、この後半であろう。前半では悪党たちの哲学に接し、また学識を持って練り上げ築いてきたジュリエットの哲学が明瞭になってくる。
途中のローマ法王とのやりとりは必見で、宗教批判だけでなく、歴代ローマ法王のスキャンダルを挙げていく痛烈な批判もあり、もう素晴らしく面白いし痛快である。
国王相手にその国の情勢や政治についてお説教を下し、痛烈に批判するジュリエット。「このくらいのこと、フランスでは3歳の子でもしっているわよ」は、間違いなく名ゼリフだ。
ジュリエットは、自分で「哲学者」を自称するだけあって、当時の哲学はもちろん、思想史、歴史、政治、文化、宗教、科学、かなりの知識を備えた破格の才女だという事実は注目に値する。(18世紀であることを考えれば、サドは相当な知識人だったのだろう)
なお印象的な最後も見逃してはならない。
本書と対を成す作品『美徳の不幸』の主人公、美徳にいきたジュリエットの妹の、実に悲惨な死に方。一方、ただ悪徳の道を歩んだジュリエットが、約束された未来、希望に満ちた結末にての大団円。なぜか清々しく感じた自分がいる。
話題の作品
★★☆☆☆
今も昔も変りませんね。
クラッシックさが新しい。
ギブアーップ
★★★☆☆
最後まで読めませんでした。ただひたすらに悪の限りを尽くす女の話
です。読む前は、人はなぜ悪に惹かれるのかを書いたものだと思ってい
たのですが、逆説的な道徳小説のように感じました。悪をなすことには
快楽が伴い、反対する理由には、自らがそれをなされたくは無いという
気持ちがあるからで、そのことをもって悪をなさない理由にはならない
ということなのでしょうか。何時かじっくり読んでみようと思います。
風刺悪徳文学の極致
★★★★☆
澁澤訳「悪徳の栄え」下巻。基本的には、上巻と変わらないが、宗教や道徳の偽善を糾弾するジュリエットの舌鋒いよいよ鋭く、悪に徹する心に隙が出来た人間は悉く姦計によって葬り去られる。これは一種の風刺文学というべきだろう。とにかく出てくる少女は悉く「絶世の美女」で、次から次へとジュリエットやその取り巻きの餌食となる。上巻と同様、知っておくべき性語が若干出てくる。強蔵(つよぞう)=精力の強い男、香箱=女陰、鑓尖(やりさき)=陰茎、腎水=精液、愛液、等々。しかし、これらは江戸期以前にその出典が求められるもので、ヨーロッパ文学である本書の訳語として必ずしも適切ではないかもしれない。わかりやすい訳ではあるが、全体に野暮ったい雰囲気がするのはそのせいだろう。