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日本宗教史 (岩波新書)

価格: ¥840
カテゴリ: 新書
ブランド: 岩波書店
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宗教論に関心がある人のみならず、日本論一般に関心がある人にもお勧めの好著 ★★★★☆
 日本の宗教の歴史を仏教、神道、儒教、キリスト教ほか諸宗教の関係のなかで様々な角度から俯瞰した概論書であるが、主に神道に比重をかけているようである。それは<古層>という従来の捉え方の不備を明らかにする意図があるからだ。神道のいう神は、われわれが漠然と考えているように、純粋でも確乎とした理念をもっているものでなく、そもそもの始めから、いわば「輸入」された仏教の仏と関係し合い、神仏習合あるいは本地垂迹という、いわばハイブリッドされた神仏たちが多種多様なイメージとして創造され、跋扈していたのだ。立川流密教が神道の中枢まで入り込んでいることもその一例。

 日本語もそうであるけれど、仮名と真名(漢字)のハイブリッドとも関連していそうだ。これはどうやら日本人のメンタリティーそのものなのかも?
 
 <古層>という過去へ遡行すればするほどそのまた古層を虚構として「創造」「発見」せざるを得ないというパラドクスに陥るため、筆者は深層と表層という枠組みで捉えようとしているようだ。つまり本来顧みられなかった異質性や辺縁を見出すことで新たに時空間的な連関が再発見されるということになってくる。
 
仏教にしてもなんとも眩暈のするような諸宗教の入り乱れ、混交、融合、排斥、分離、抵抗、反乱が歴史的に幾度も繰り返されている様相が詳らかになっている。日本人の無節操さは、よく言えば異質なものへの寛容性、既成のものとうまく融合させる柔軟な文化性と言えなくもないが、一方では同時に硬直した偏狭で頑迷な排他的精神性も裏腹にもっている。宣長や胤篤らの国学以降の国家神道に繋がる系譜を辿っていくと、戦前の皇国史観というものの背景が浮び上がる論理が頗る面白い。

 宗教史を辿るだけでなく、というか宗教史を深層と表層という枠組みから辿っていくと、もはや宗教という概念を逸脱し、政治、経済、文化、社会といった領域に跨りながら重層的に読み解く方法論が必要になってくる。これは今後日本の宗教史を読み解く上で必然となってくるだろう。
宗教はいかに理解されてきたか ★★★★★
日本の宗教は、メインだけでも神道、仏教、儒教とあり、さらにそれぞれの関係が複雑に関わりあっている。
本書は、そうした宗教がそれぞれに時代にどのように理解・解釈されてきたのかを丹念に追った本である。

幅としては、古代から現代まで一通りカバーしている。
内容もただの教科書ではなく新規な視点も多い。
例えば鎌倉新仏教における法然=浄土宗的側面の話や、浄土真宗が一神教的になっていった話は非常に面白かった。

ただ、「解釈がどうされたか」という視点で切っているので、いわゆる「伝統の創造」的な側面には「事実ではない」といった厳しい評価が下されがちかなとは思った。
あと、解釈中心なので、その解釈の内容にまではあまり言及されていなかった印象である。
例えば、「神道は世界をどうとらえているか」といった話は、本書に求めるのはお門違いというものだろう。(そういう人は、神道なら神道の逆襲 (講談社現代新書)がおススメ)

若干後半が批判的なレビューになったが、これだけの内容を新書にうまくまとめあげたのは相当なものだと思う。
巻末の参考文献も充実しているし、宗教史のイントロダクションとしてはなかなかいい本であろう。
日本宗教史の概略をつかめる好著 ★★★★☆
200ページ余りと量は少なめですが、日本宗教史に関する概要が、要領よくまとまっています。
しかも、その記述は、教科書のような無難な記述に収まるところなく、所々に、著者の思い切った見解が示されており、スリリングですらあります。
特に、記紀神話の段階で既に仏教思想の影響が組み込まれていたという指摘、「神道思想」なるものが初めから存在したのではなく、それは仏教に対抗する形で後世に形成されてきたという指摘、キリスト教が伝来した当時の日本において、一神教的な宗教を受け入れる素地ができつつあったという指摘は、私にとってはとても新鮮な発見でした。

キレある名著 ★★★★★
日本の宗教を外在的に分析した、キレある名著。日本においていかにして宗教が受容ないし練成されて普及し又「再解釈」されてきたかを、歴史的背景に照らして説く。

本書のメインアイデアは、日本的な不変の思考様式などは存在せず、日本的思想の核と考えられているものも、後世の発見の賜物に過ぎないということである。

例として、一章「仏教の浸透と神々」では、古事記・日本書紀の形成が仏教思想の影響の下にあったことを指摘する。すなわち、江戸時代の国学から復古神道に至る流れで、外在思想に対置される「純日本的」なものと考えられてきた記紀神話も、「純日本的」なものではない。日本書紀の編纂に関わったと言われる僧「道慈」は唐への留学経験者であった。そして例えばアマテラスが最高神として天皇を守護するという発想は、仏が護法の王を守護するという発想に近似しており、後者からの影響が伺われるという。それ以前も素朴な日神信仰があったことには違いないが、皇祖神天照大神は仏教的思想のもとに再構成されたものであって、もちろんそれ以前の日神信仰そのものと同視しえないし、「純日本的」ですらないということになる。

歴史に関わる書の常として資料の間隙は推論で埋めなければならないわけであるが、著者のこのような大胆でかつ合理的な推論と専門家ならではの該博な知識で、本書の内容は非常に説得的なものとなっており読み応え十分である。もっとも終盤の第四章「近代化と宗教」は蛇足だったかもしれないが(おそらくアカデミズムでの研究も盛んではなく、また著者の専門でもないことからか、常識的な話に終始していて見所はない)。
<古層>概念の脱構築、ということになるんじゃないでしょうか? ★★★★☆
 戦前の思想において横溢した「古層」を批判し、歯止めをかけようとして構想された丸山真男の「古層」論(p226)を、宗教史の体裁を借りてさらに脱構築する試み。
 著者は49年生の団塊世代で、学齢が1つ上の橋本治(一浪)とは学生時代からの友人らしい。また学齢で1つ、大学では2年下に同じ山梨県出身の中沢新一がおり、専門分野でも、また学者一族の生まれという点でも共通性があって、いずれかの時期から互いに意識していたのではないかと、私は疑っている。
 以下、いくつか気になった点についてのみ触れる。
 1:「律令制は神祇官に太政官と並ぶ高い位置を与え、神祇制度の確立を図り、それを国家の基盤となした」(p24)から、「祭政一致」だと著者は書く。しかしこれはややミスリーディングで、実際には唐の律令では一致していた祭政が、日本に移入される段階で神祇官と太政官に分離されたのではないか? 著者自身、直後で皇祖神を祀る地として都から離れた伊勢神宮が選ばれた点に触れ、「より正確に言えば(中略)完全な祭政一致ではなく」(p27)と留保を置くなど、記述にブレがある。
 2:天皇の即位に絡む仏教儀礼である即位灌頂に触れ、その本尊ダキニ天が密教立川流とも縁の深い愛欲の神だと指摘。ダキニ法は仏教の正統に位置づけられぬ「外法」だが、その呪術的な力こそ王権の本質だ。なぜなら「王権はその継続性が重要な意味を持つから、仏教の原則に従って煩悩を滅し、性を否定してしまっては成り立たない」(p81)という記述には、ドキドキした。
 3:「今日、キリスト教などの一神教に対して、日本伝来の多神教は寛容であり、平和的であるなどという奇妙な宣伝が」蔓延っているが、「キリシタン弾圧の残忍さを見れば、決して日本の仏教が寛容だなどとはいえない」(p133)という指摘に打撃を受ける論者は多いだろう。さらに「当時日本の宗教自体が原理を求めて一神教的な志向を持っていた」とも述べられている。そもそも仏教の形成過程でキリスト教が影響したという議論も、またその逆もあるワケだが…