1940年代の中国。裕福な暮らしに甘えて賭博に興じる夫、福貴(グオ・ヨウ)を見限った妻、家珍(コン・リー)。やがて全財産を失った福貴は、影絵講談芸で身を立てながら戦火の中を生き抜き、やがて家珍や子供たちと再会し、新たな生活を始めるが…。
1940年代から60年代にかけての中国・毛沢東時代を必死に生き抜こうとする家族の姿を描いた巨匠チャン・イーモウ監督の大河ドラマ。ユイ・ホアによる原作は、中国で20万部を乞えたベストセラー小説。94年度のカンヌ国際映画祭では審査員特別賞と主演男優賞を受賞している。庶民が生きていく上で抱く愛情や憎悪、そして喜びや哀しみといった要素が過不足なく描かれ、その中から、人はいかに生きていくべきかというメッセージがそこはかとなく訴えられていく。映像美もさながら、人間の自然な感情にこそ重点を置いた、イーモウ監督のターニング・ポイントともいえる作品だろう。(的田也寸志)
「生きる」とは何か、黒澤監督からの強いメッセージ
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ある市役所の市民課課長、渡辺は、数ある決裁書類に判を押すだけの平凡な日々を過ごしていました。
しかしとある日、自分が胃がんに侵されており、あと半年の命と知ります。
それから彼は市役所を休んでいきますが、元市役所職員でおもちゃ工場に勤めるとよと出会い
彼女が生き生きとしている理由を知ってから、自分も「生きる」ことを決めたのでした。
黒澤映画の定番、主演の志村喬の名演が光ります。
「生きる」意味を知るまでの、うだつの上がらない定年前の課長。
「生きる」意味を知ってからの、公園建設を中心になって進める信念のある課長。
口ぶりは変わりませんが、別人のようになった様を見事に演じています。
映画中で口ずさまれる「命短し、恋せよ乙女」というフレーズ。曲とともに、深く心に響きます。
すべての方におすすめしますが、公務員の方はぜひ一度観ていただきたい映画です。
何度見ても涙が止まりません。
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黒澤作品は元々好きで全作品見ましたが、私の個人的なベストです。
主人公が胃癌に気付いてから、「生きる」ことを模索する前半。酒に溺れ、娯楽に走り、夜の歓楽街、クラブ、ストリップ劇場巡り、女遊び、そして何よりの生きがいだった息子。全てが上手くいかず虚無感におそわれます。 そして「生きる」ことの希望を役所の仕事に見出だす後半。全てのエピソードが秀逸で飽きさせません。
映像的にも余分なセリフ、シーンは削りながらも、状況を理解するのに充分余韻があります。
また役者が巧いのは言うまでもありませんが、小さく映り込んでいる役者一人一人の感情の機微までしっかり表現されています。特に後半の通夜のシーンは圧巻。遺影を囲む誰もが人間らしく感情移入できます。
この映画のマイナス面を語ることは不粋。それ程までに、大傑作です。
仕事を、人生を考えようという時みんなに振り返って欲しい作品。
★★★★★
一昨年の秋にテレビ版リメイクが放送されましたので、そちらをご覧になって
「じゃあ本家も観てみようかな」と思った方、ぜひぜひどうぞ。
そうでない方、「50年以上前の白黒映画、それも『奥さんに先立たれ、一人息子には
相手にされず、つまんない仕事を毎日やる気なくさばいているさえないおっさんが末期
ガンで死んでいく辛気臭い話』なんて観たくないお!」と思った方も、ぜひ観ましょう。
自分と同世代だとあまり観ている人がいないのも残念なのですが、30代前半くらいで
まだ両親とも健在という人(自分を含めて)は、この課長さんをはじめとしたやる気皆無な
『生きたまま死んでいる』人にはなるまい、と観れば思うことでしょう。
どちらかというと、課長さんの息子・光男さんとその奥さんのように家族を結果的に
絶望させるようなことは絶対にするまい、と感じる人も多いんじゃないかな。
もし語られていない後日談があるのだとしたら、光男さんと奥さんが、そして課長さんに
本当に生きるきっかけを与えてくれた小田切さんが、その後どんな人生を送ったのだろうか、
とも考えます。
もちろん、リアルな1950年代前半の風景やあの時代の人の立ち居振る舞いを見るだけでも
楽しめると思います。課長さんが「女物の靴下ってどこに売っているんだね?」と聞くのを
観て、当時はおじさんの世界と若い娘さんの世界は重なっている部分は少なかったことや、
当時の日本は軽工業品の生産と輸出で産業を少しずつ再生していっていた状態だったという
こともよくわかります。
観る人それぞれに、人生について、仕事について考えるきっかけをくれるであろう、
そんな映画です。
映画の教科書
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黒沢明の最高傑作であり、映画の教科書的作品でもある。
この映画を見てピンと来なかったらあなたには映画的センスが無いから映画を見るのをおやめなさいと言ってもいいくらいの作品。
この映画がなぜ名作なのか?「人間が生きる意味」を問うた作品だから?官僚批判だから?もちろんそれも大きな要素ではあるが、何よりもこの映画は映像作品として完成度が高いからだ。
開幕、いきなり胃がんのレントゲン写真で始まる。映像ならではの開幕だ。小説ではこんな書き出しはできない。観客は主人公が末期癌であることを知っているわけだから普通の構成では興味を失ってしまう。だからいきなり主人公通夜の席に場面が飛ぶ。このジャンプショットの見事さ。構成の凄さ。回想により断片的に語られる主人公のその後は主人公に残された時間が無い事を知っている観客とそれを知らない登場人物たちとの間にギャップを生じさせることで観客の感情移入を即す効果を上げる。さらにあらゆる場面でちりばめられている対位法の素晴らしさ。主人公が残された時間を生きる目的を見つけた瞬間に流れる「ハッピーバースディー」は主人公が改めて生きなおす瞬間を祝福する演出効果となっている(現実にはそんな音楽が流れないので、女学生のカットを入れているのだよ。死にゆく初老の男とこれから人生を謳歌しようとする女学生との対比でもある。いじわるなんかじゃねぇーの)。
この真逆がダンスホールでの「ゴンドラの歌」だ。華やかなダンスホールで客が引いてしまうほどの哀しい声で歌う主人公。華やかであればある程主人公の絶望感が観客に響く。そしてこの場面があるがこそのラストのブランコでの「ゴンドラの歌」なのだ。この対が深い感動を呼ぶのだ。同じ歌でも絶望と達成感とこのブランコをこれから使うであろう子供たちへの希望を想像することによってまるで違う聞こえ方がするのだ。ブランコと初老の男という表現そのものも対位法なのだ。緻密な映像演出と役者の好演、普遍的なテーマと社会性、まさに映画の教科書のような作品なのだ、これは。最高級の芸術だよこれは。国宝だよ。
ラスト数十分の集団劇にこそこの映画の凄みを感じる。
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この映画の一番凄いのは、志村喬演ずる市民課長の主人公が癌で死んだ後で、残された人々・・・・上は市の助役から、他課のトップ、部下たち、そして直接の遺族、更には・・・あ、コレはさすがにネタバレ避けます・・・との間で延々わされる、故人をしのんでのやりとりと、それら個々の人が思い出していく、生前の主人公の振る舞いにつの回想をクロスカッティング的に差し挟みながら(厳密には「クロスカッティング」とは、同時進行の別のシーンを行き来する場合らしいが)進んでいく「最後の40分」(全体では2時間半の映画である)に尽きると思う。
このことは映画通には知れ渡ったことで、映画の作劇術の鮮やかさについては語り尽くされてもいるようだけれども、私なりの言葉で書いてみたい。
ここでなされる対話の辛辣なリアリズムにはほんとうに舌を巻くしかない。これだけ大人数の役者が重ねる議論、ちゃんとひとりひとりの立場と性格の違いまで完璧に計算され尽くしている。脚本術の高さという点では想像を絶すると思う。
話がひとつの方向に収束してみんな納得するという流れにはなかなかならないのだ。繰り返し繰り返し、そこに集う「お役所公務員」の骨の髄まで食いいった、「職場で勤め上げようとすれは、何もしちゃいけない」という適応スタイル、他部署との縄張り意識、選挙対策まで持ち出す「一見もっともらしい状況分析」が、いやらしいまで議論を元の木阿弥にしてしまおうとする。
ほんとうにお通夜の席で、このような、ほんとうにうねうねとしたやり取りが延々と続いていても何もおかしくはないというくらいにリアルである。
この、集団での対話の異様な生々しさの背景には、この映画製作直前の時期まで続いた東宝の労働争議を目の当たりにした中で、黒澤をはじめとした製作スタッフが肌身に染みて感じた事柄も、ダイレクトに反映しているのかもしれない。
もとより、こうした寄せては返すような膠着スレスレの対話を重ねる中で、それぞれの周囲の人物の中に残っていた、忘れかけていた記憶の断片が蘇り、皆の中でシェアされていくうちに、ジグソーパズルは徐々に完成され、故人の生き様とその動機が何だったのかについて、やっとひとつの立体的な像を結び始める。
遺された人々の記憶を寄せ集めて、共有する中で、はじめて故人の「生きる」姿が再建されるのである。
もとより、それすら、その後に続くあのようなエンディングという形でしか描かないあたりにこそ、それは観客ひとりひとりの「生きる」あり方の問題ということを最後に突きつけているのだと思う。