ヨナスやそれ以前の研究者の方法を神学・哲学的アプローチとするなら、彼女のそれは歴史学的なアプローチということになるでしょう。キリストの生と死に関する独自の解釈と真の自己認識にいたる神秘主義的な実践を発展させていったグノーシス主義は、いかにして正統派教会から異端のレッテルを貼られ、歴史上から消去されていったのか?ペイゲルスは、グノーシスの教義、ジェンダー、教会の制度的発展、さらには殉教観念の決定的相違などに着目しながら、非常にクリアでスマートな議論をしています。見事の一言です。
残念なのは、訳者の仕事振りです。訳者荒井氏は、本書の原題The Gnostic Gospelsを「ナグ・ハマディ写本」と変えてしまっています。これは暴挙ではないでしょうか。ペイゲルスは、グノーシス主義への共感を隠すことなく、彼らグノーシス主義者たちが正統派の福音書とは異なる彼ら独自の福音書を作り出したことを重視しています。荒井氏のタイトルは、グノーシスを根絶した正統派キリスト教徒のように、ペイゲルスがタイトルにこめたニュアンスを消していると思います。また、彼は後書きで、ペイゲルスの議論にはこれこれこのような問題点があって、本人にも確認したなどと得意げに記しています。読んで非常に不快な後書きでした。
これが、キリスト教会の歴史、西洋・オリエントの思想史に大きな謎を投げるナグ・ハマディ写本の発見です。二世紀のグノーシス派の文献が大量に含まれていました。私は死海写本よりずっと重要だと思っています。
ナグ・ハマディ写本の内容について、わかりやすく解説した本書が、優れた訳者・研究者によって訳されたのは喜ばしいことですが、1982年の初版では、「ナグ・ハマディ写本」そのものの知名度が低く、それほど読まれなかったようです。再刊にともない、西洋の思想に興味のある人には是非お薦めしたいと思います。
「訳者あとがき」にも言及されているように、ややテーゼを立てるのに急で論拠がしっかりしていないところがありますし、フェミニズムの傾向も少々鼻につきます。また、キリスト教の成立史に限った解説ですので、非キリスト教も含む広さをもつ「ナグ・ハマディ写本」・グノーシス思想の解説としては狭すぎるように思いました。しかし、ジャーナリスティックで明快、挑発的な文章は、翻訳も良いせいか読み易く、興奮させられます。
「訳者あとがき」の批判や、新約聖書の成立史としては、クセジュ文庫のクルマン「新約聖書」も併読すると、より良いと思います。