世界を、そして未来を歩く作家
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本書は多和田さんが近年訪れた世界各国の街についてのエッセイです。
小説などではなかなか見られない多和田さんの人柄がいたるところに垣間見ることができて面白いです。また、なかなか表現できずに歯がゆくなってしまうような感覚的なものも、手にとってみることができるような表現にうまくかえてしまわれ、すごいなあと思います。
多和田さんの、どんな異質なものに対しても嫌悪することなく耳を傾け、そこから何かを学び取ろうとする真摯な態度は素敵だと思いました。
国家とは何であり、国境はどこにあるのだろうか?
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BS番組「週刊ブックレビュー」で推奨される本として紹介されていることを契機に読んでみることにした。何よりも本書のタイトルがあまりにも魅力的であった。内容もきっとそうであるに違いないと思い読み進めていったが、全く私の期待を裏切らなかった。著者である多和田葉子さんは本書を読む限り「世界を駆け巡る作家」であり、訪れた街を描写する表現が実に独特である。そうしたいわば感覚的表現が随所に散りばめられている。楽しく読める本だが、それにとどまらない何かを本書は秘めている。著者の世界観なのであろうか。少なくとも私には単なる「旅のエッセイ」ではなかった。地名すら知らない街が数多く登場することもあって、私なりの想像力を必死に働かせて、街やそこにある路のイメージを確立させようと努めてみた。本書の帯に記載されている「揺さぶられる身体感覚 街の表層が裂け、記憶がゆがむ」という表現もまことに印象的である。とにかく本書との出会いを素直に喜べる自分がいることがやけに嬉しい。特に興味深いと思った内容のみを以下に列挙していくが、是非とも多くの方が本書を手にとってくださることを密かに期待したい。すぐに本書に「溶け込む」自分がいることに気付くであろう。
1)ヨーロッパ共同体における、言語数の豊かさを弱みではなくむしろ強みとして再評価する動きがあること(121頁)。
2)異質な響きを許容しうる「寛容な耳」の重要性。「創造的な活動は、まず解釈不可能な世界に耳を傾け続けるところから始めるのではないか」という主張(166頁)。
3)「死者の数を挙げる自分自身に納得できないものを感じるのは、死者を数として捉える視線 そのものに、死なないですむ者の奢りが感じられるからかもしれない」(193頁)という見解。アウシュヴィッツをめぐるエッセイは、否応なくフランクルの『夜と霧』を想起させた。
街を歩く。本屋に入る。人と知り合う。
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2005年春から2006年末まで
多和田葉子が訪ねた街とその旅についてのエッセイ。
ベルリン在住なのでヨーロッパが中心だが
アメリカ、カナダ、イスラム圏と渡る。
ヨーロッパの中でも旧東側がおもしろい。
例えば、ヨーロッパにおける東と西の境界線は
さまざまに移動している。
ドイツではプラハやブタベストは中央ヨーロッパ、
モスクワは東ヨーロッパ。
しかしフランスではモスクワはヨーロッパではなく、
プラハやブタベストは東ヨーロッパという認識だという。
ドイツに住む多和田葉子は
モスクワは東ヨーロッパなのだそうだが
私の感覚では、モスクワはヨーロッパじゃない。
かといってアジアでもないけれど。
人の地理感覚ってほんと違う。
静かな筆致にもかかわらず
多和田葉子自身は好奇心旺盛で
人とのつきあいもいい人なのだと想像する。
街を歩き、本屋に入る記述が多いのも楽しい。
詩的、水彩画的エッセー
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本書は、2006年の毎週土曜日の日本経済新聞に
掲載されていたエッセーを1冊の本にしたものです。
各都市との接触を通して、女史の思考から次々と
研ぎ澄まされた言葉が生まれていきます。
その言葉たちが今という共通の時間において
地球という共通の空間のある地点を色付けしていきます。
多和田女史のエッセーは詩的でありまた水彩画的だと思いました。
人の移動とともに境界がずれていく(42頁)、
文化施設に生まれ変わったガスタンクの中の神秘(72頁)、
「ライネッカー三角地帯」の復活(190頁)、
そしてアウシュヴィッツ訪問時の日本人であるが故の気の重さ(196頁)。
多和田女史は「境界」(国境、言語、宗教など)を透明にし、
我々に「境界」の向こう側のことを語ってくれます。
多和田女史が紡ぎ出す言葉には“力”があります。