絶望はひたむきに向き合うためにあるんじゃない
★★★★★
初めての中原昌也だった。おもろいじゃん、つうかかっこいい!!!
この短篇集の意味はないし、語る必要がない。そんなものは全く無意味だから。いかに意味を消し去り、感じることに徹されるか。
中原は小説という芸術にどれだけ死刑宣告を言い渡したのだろうか。
中原昌也は、すばらしく達者な作家で、センスある才能を垣間みることのできる短篇集だということだけ書いておきます。そして、人間がそもそも絶望そのものなのだと教えてくれる作品です。
憎悪が背景にあるのになぜか心地よい小説
★★★★★
街を歩いている時の悪態をつきたい相手と心の中で悪態をついている自分を外から見たらこの小説みたいになるんじゃないかと思う。
内気で陰気な青年とコントラストをなす単純で元気のよい若者、
若者を指導するオシャレな中年女、根拠のない自信、
突然始る暴力の衝動と破壊、
人を苦しめるためだけに作られたシステムと社会、
悪臭、ポルノ写真至上主義、
花や小鳥や小動物への愛情、
これらの要素が合わさって物凄い迫力が生まれる。
愉快な子猫
★★★★★
コイツ(と、別に会ったわけでも性格を知り尽くしているわけでもないのに、勢いでこう呼べてしまうような人柄が、作られたキャラの内側と写真から匂いのように漂ってくる)の胡散臭さは常に一貫している。
本名だかペンネームだか知らないが、名前からしてそうだ。もしこの本の著者名が「小林秀樹」とか「志賀拓哉」だったとしたら、少しやりすぎだった。これではまるで存在自体がただのパクリ人間のようではないか。
ところが「中原昌也」。胡散臭さの演出に最良の名前とは言い難いが、上の二つよりだいぶマシなのではなかろうか。響きが大分安っぽいし、人選も趣味がいい。それにパクリっぽさを前面に押し出しつつ、己のアイデンティティを主張できることが許されるような、開かれた名前だ。そして何より、パッと見の醜悪さとは裏腹に、中原昌也の文章は詩なのだ。その目指すところは中也とはかなりの隔たりがあるが、この本の中に出てくる"女弁護士の○子だ(名前失念)"などを始めとする無意味で唐突過ぎるフレーズの数々は、言葉の響きそれ自体が持つ効力をいやというほど読者に痛感させる。そして、次の日には自分がそれに似た詩を書いてみたくなる。ちょうど私が中原を模倣するかのように中途半端にこの投稿を終わらせるかの如く。