腕くらべ (岩波文庫 緑 41-2)
価格: ¥630
20歳代半ばを過ぎ、花柳界にあっては「年増」と呼ばれる新橋の二流芸者、駒代。いかにも「荷風好み」と言えなくもない、幸薄い主人公である。身請けされて一時は東北へ引きこもるが、旦那と死別し、身のやる方なく再び東京の芸者屋に舞い戻る。「ああ芸者はいやだ、芸者になれば何をされても仕様がない…」と心の内では嘆くものの、他に行き場があるわけではない。虚栄と打算の渦巻く非情な世界で、駒代が恋の「腕くらべ」に破れて落ちていく様が描かれる。
フランス自然主義文学の影響を受け、自らの小説にもその手法を具現していった永井荷風。芸娼妓とそれを取り巻く人たちの細かな風俗描写や、主観を排し冷徹な筆致で克明に人物を浮き彫りにしていく手腕に揺るぎはない。が、それにしても荷風はこの駒代という女性をこれでもかというくらい精神的、肉体的に痛めつける。周囲の人間からことごとく裏切られ、肉体を蹂躙される駒代の姿は、あまりに悲痛で、サディスティックな趣向をうかがわせるほどである。
しかし物語は、意外とも言える楽観的な結末を迎える。やや唐突で全体の調和を乱しかねない終結に、読む者はどこかほっとさせられるだろう。荷風は登場人物を最後まで突き放す作家ではない。ときには文学的意匠に背いてでも、登場人物に救いの手を差し伸べてしまう。そこにこの稀有な作家の、言いようのない魅力が存在している。(三木秀則)