なぜ、日本の教育は偏差値中心なのか
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今、日本を始めとした先進諸国は大量生産を中心とした産業の限界に直面しつつある。
そんな中、今模索されているのは環境面では大量生産大量消費文化からエコや省エネへ、行政面では中央集権型から地方分権へ、そして本著書においては偏差値教育から多様な価値観へのパラダイムシフトである。
今まで日本は戦後の高度経済成長を通して右肩上がりの成長を続け、それを支える人材の育成を中心とした教育を展開してきた。しかし経済成長が今後困難になった今、これから必要とされる日本人とはかつてのような詰め込み教育によって作られた働き蟻ではなく、自立して自分で考え、自分自身の人生に自負と責任を持ち、他者と協調して生きていける人材であると筆者は考える。
そのような先見からいち早く「ゆとり教育」を推進したのが寺脇氏である。つまりゆとり教育とは偏差値のみを人間の評価基準にすえた偏った日本のつめこみ教育と社会制度に対する挑戦であったと言える。
なぜ頭の良い子だけが偉いのか。なぜ国民皆が競って良い大学に入り大きな会社に入る事を目指していたのか。学校での勉強は不得意でも田を耕したり動物を世話したりする事が好きな子や、優れたコミュニケーション能力を有した子だって十分偉いし、皆が同じ価値観の元で競争するよりも寧ろそのような子どもたちの個性を認め、場や将来を保障する社会構造の方が健全ではないのか。「平等な詰め込み教育」を施して均一的な国民を量産するよりもそれぞれの子どもの個性を伸ばす対応や「考える人間」を育てるこそがこれからの世の中には必要なのではないかと著者は考え、改革を実行した。
その教育改革とはどうあるべきであったのか。今後の世界情勢や日本の趨勢を鑑みながら寺脇氏独自の経験と視点で本著では展開する。
序章で氏はこのように記す
「覇権国家同士の、あるいはイデオロギーの異なる東西陣営の「競争」が行われ、その勝利者が世界を治めるという帝国主義以来の発想は、はっきり終わっている。冷戦の勝利者であるアメリカが、アフガニスタンやイラクを『善導』できているかどうか見ればいい。今世紀初頭に起きた「9.11」テロの意味したものが、いよいよはっきりしてきた。「競争」ではなく、「共生」によってこそ、21世紀に平和がもたらされる。」
その共生社会の実現に向け、寺脇氏は現在も全国各地で精力的に活動を展開している。