絶句のあとの至福
★★★★★
買ってから読み始めるまで半月を要した作品でした。
最初はあの文語と口語のはざまのような語り口になじめなかったのですが、
ふと、読んでみようか、と本を開いたときが、そのときだったのでしょうか。
うそのように、押伏村や蕨野の丘が脳裏にひろがって、そこに
たしかに息づく人影が浮かんできたのでした。
読後感は、茫然自失したのちにわっと奔流となって血が肉が注ぎ込むような
喜びがおしよせました。この題材をこれほどさわやかに描ききったたのは
嫁姑とのやさしさ、あたたかさ、強さ、きびしさに満ちたやりとりだったり
老人たちの生き様だったり、大地の強靭さ、土の香り、厳しい暮らしや
苦い選択など、まさに生きるとは、死ぬるとは、ということに肉薄したから
だったように思います。
厳しさを増すにつれ、嫁、姑の相手を思いやる言葉が沁みてきました。
この文章力。こんな文をもってして、このようなストーリーで
人を語れる作家さんがいるなんて、奇蹟のようです。
私にとっては、これまで読んだなかで、ほぼ、ベストの作品だと思います。
ああー興奮してしまった。。。
もはや日本文学の古典である
★★★★★
「蕨野行」(村田喜代子)を読んで呆然としている。
日本文学にこんな傑作があったのか!
<世代間戦争>について考えているうちに棄老伝説→姥捨て文学に入り込み、斉藤美奈子の書評で知った新潮今月号の「デンデラ」(佐藤友哉)を読み、「楢山節考」(深沢七郎)を再読し、「蕨野行」に辿り付いた。
しかし「蕨野行」は世代間の対立を扱ったものでも姥捨て文学でもない。
これは日本文学史上に屹立した独自の韻文文学であり、すでに古典の域にある。
大江健三郎の全作品と秤にかけてどちらが重いかというほどの作品だ。村上春樹など秤にもかからない。
何故それほど凄いのか。
220ページの小説ながら、これはもう一篇の詩なのだ。
文章にリズムがあり、惹起されるイメージに美がある。姥捨てを背景とする一時代の人間性のドラマが暖かく描かれる。
全篇、「お姑(ばば)よい」「ヌイよい」の呼びかけで始まる対話のみで成り立つ。
いつの時代、どこの土地とも知れない。使われる方言もどこのものとも知れない。
お姑は貧しい農村の庄屋のおかみである。部落の女仕事の頭(かしら)である。連れ合いはもう亡くなり息子が代を継いでいる。
ヌイは息子の後妻である。まだ16歳でしかない。先妻は病死した。
この部落には<ワラビ野入り>の掟があり、男女を問わず60歳になれば部落を出てワラビ野に入らねばならぬ。
お姑=レンにもワラビ野入りの時が来た。
レンはヌイに頭としての心得を伝えようとする。
ヌイにとって年の離れた夫は怖い存在でしかない。実の母以上にレンを慕う。
野に入ったレンはそこでの厳しい生活をヌイに伝える。
ヌイは凶作の部落や家族の状況を伝え、教えを乞う。
実際に伝言が行き交うわけではない。手紙を送るわけではない。ただ気持ちの交流である。内容は殆ど相聞歌といっていい。
全体が、<人を恋うる唄>だ。
〜〜〜冒頭部分を引用する〜〜〜
お姑よい。
永えあいだ凍っていた空がようやく溶けて、日の光が射して参りたるよ。鋸伏山を覆っていた雪も消え始め、山肌の残り雪がとうとう馬の形を現せり。まだ尻尾のところは出ずなるが、この数日の日和りが続くなれば、すぐ馬の姿も出来上がりつろう。春が参るよい。
ヌイよい。
残り雪の馬が現われるなら、男ン衆の表仕事の季節がきたるなり。田の打ち起こしが始まりつろう。裏の庭にもコブシの花が咲いた。大きな花が五十も百も、真白に満開なるよ。田打ち桜と申して、昔からコブシは百姓に田打つ支度せよと知らせるやち。男だちが田の用意をするあいだに、女子等は大豆選り分けて良き種を取り置いたか。味噌大豆を煮るべしよい。味噌は一年中欠かせぬものなれば、これを種播きの前の仕事とするやち。
団右衛門はこの里の庄屋なれば、男仕事の頭領。したら嫁のおめは女仕事の頭やち。テラにもいろいろ尋ねて相談し、名子、子作のかか等、下女だちを使うて、おれがしてみたよにやるがよい。
引き込まれます
★★★★☆
新聞の書評をみてぜひ読んでみたいと思ったが、いざ手に入ると姥捨てのテーマが重くてしばらく読まなかった。
でも読み始めると一晩で睡眠も忘れて読み終えた。
この物語の中にもある「生まれかわり」とか「霊」とかってあるんだろうかと思っていたが、現在の街の生活ではあまりふれることのない生と死が身近にあった時代、土地ではありえたことなのかなと思える。
生まれて、生きて、老いて、死んでいくことはあたりまえで、いやなことではないのだと思わせてもらえるありがたい一冊です。
嫁と姑の相聞歌
★★★★★
解説で辺見庸氏も語っているように、「お姑よい」「ヌイよい」で始まる姑と嫁との「心の対話」が、和楽器で奏でられる「長編詩」のように快く感じられる作品でした。嫁と姑の「相聞歌」と言うと意味が可笑しくなりますが、そう言いたくなるような二人の間の愛情、信頼関係を窺わせる話になっていました。従って、ヌイの女児としての転生を暗示するあのラストは、必然ということでしょう。
ワラビの団体としての生活ぶりも印象に残りました。里との関係を絶たれ、独立した生活を強いられて、その後の逞しいというか、最後の「生きる」ことへの執念。しかし、それは「死」というものを前提にした「生」への一生懸命さでした。その中でのエピソードにおいても、早くから村を捨て山に入った妹の誘いを断るシーンや、「死」を目前にしての「愛」の告白など、胸にジーンとさせられる場面も多くありました。
単なる「姥捨」に止まらない、もっと普遍的なものが多く含まれた素晴らしい作品でした。
詩が生まれ、唄が出来る
★★★★★
心地よいリズムの文章がちりばめられ、物語が展開していく。
悲惨な哀しい内容なのに、そのリズムのためだろうか、気がついたら読み終わっている。
この才能は天賦のものなのかもしれない。
久しぶりにじっくりと考えさせられる本に出会った。