彼は、判決の時には「終身徒刑になるくらいなら死刑された方がまし」と言い切る。この科白は、他でもない現代日本でも少なからぬ死刑囚によって言われてきたものであるが、重罪を犯した人間というのは意外にそういうことを思うのかもしれない。しかし、時がたつにつれ、彼の心中は複雑な変化をみせる。そして処刑の直前には、恩赦を乞い、五分間の命乞いをするまでに変わってゆく。
ここで、我々は二つのことに注意する必要がある。
一つ目は、本書の主人公のような心情を死刑囚が時代を問わず思うのであれば、世間でよく言われる「死刑の犯罪抑止力」などというものは存在しないのだということである。
そして二つ目は、本書の主人公が持ったような心情は、犯罪を犯した後にではなく、犯罪を犯す前に持たれなければ意味がないのだということなのである。
死刑を廃止すべきか、存知すべきかは意見の分かれるところであるが、重罪を犯してしまった人たちに対して、我々の社会が本書の主人公の持ったような心情を持たせることに必ずしも成功していないという(先日の、池田小児童殺害事件の被告にも見られたような)現状を垣間見る時、私自身は死刑制度というものに対して少なからず躊躇せざるを得ない。
彼らの存在は、彼らだけにその責めが負わされるものではなく、我々の社会が彼らを生み出しており、そのスケープゴートになっているという事実は、否定できないからなのである。