息子に語りついだ本
★★★★★
当時、私は私なりに多くの規制のかかった報道人のひとりとして闘争現場に立ち会っていた者です。
「終戦」から約40年、あまりにも多くの参加者たちは沈黙する事を美徳のようにして歴史を伏せたまま、後世の者への説明責任を果たしていない事にはじれったくてならない。
権力者らがあくまで、当時のマジョリティをして「歴史」とするのを常套としている。
ならば私たち、庶民にとっての歴史を綴るならば、ひとりひとりが雑音に堪えながら『自分史』として見てきた事してきた事を立って発言してゆかなければならないはずだ。
この本ほどそうした意味で、あのキャンパス構内を客観的かつ公平、かつ主観的に表現分析できているものはないと思う。
私は頭が悪いのでひと様の記述は読んでもなかなか頭に入ってこないけれど、著者は1人称をひんぱんに織り込んでくるために読み易く解り易い。
そして東大全共闘については『安田講堂 1968−1969』が、これを本著者は読んだ後だけに(?)みずみずしく自分や周囲を第三者的に書き残している事に好感が持てた。
火事や泥棒の逮捕などで消防や警察などから感謝された話や、江古田の戦いぶりなどあの当時に我々がもっと世間にアッピールして差し上げた買った話だ。
まさしくあの当時のヘルメット世代が(イヤな言葉だが)等身大で素直に描かれており、読後感も爽やかだった。
息子に、娘に私は『あの当時を知りたいならこれだけ読めば十分だ』と、私は自信を持って同世代からのメッセージとしてこれらを贈った。
あの11・22安田講堂前大集会に、夕闇の迫るなかを勇躍姿を現した日大全共闘3000の大部隊をみとめ、(我々報道陣も含め)多くが感涙にむせんだあのシーンを、上記『安田…』で島さんが最初に書いてくれたが、本著者はそれを読み引用を明らかにしたうえで、”やって来た側”として『安田…』への返著のように事情を述べ、ここに合流を果たしている。
しかしこの本を開くたびに、このくだりには今も落涙させられ、困ってしまう(笑)。
「無断引用」や「経歴詐称」が目立つこの種の本にあってこれらは、あの当時の全共闘のように馬鹿正直なフェアな執筆姿勢だった。
全共闘1968 を新たな視点で語る
★★★★☆
筆者は、強い信念を持って全共闘に参加した訳ではない。たまたま、そこにバリケードがあり、覗いてみたら仲間として受入れられたのだ。バリケードの中に泊り込むのも、活動から離脱するのも自由であった。
それ故に、闘争の先頭に立つリーダーとは異なり、大学当局・その意向に従う体育会系学生・右翼・警察、および周囲の一般市民の考え方を客観的に把握することができた。
本書では、不正行為をした大学当局と国家権力との汚れた結びつきを明らかにするとともに、全共闘の活動に対する社会の寛容さ、権力側に立って行動する機動隊への民衆の反発などを一兵卒の立場で語っている。
私は筆者の主張する「直接自治」には賛同しかねる。しかし、本書は闘争の現実を偏りのない目で見て記述しているので、そこを評価したい。
事実として「全共闘」とは何だったのか、を考える場合には必読の書である。
全共闘運動は現在に何を投げかけているのか
★★★★★
私にとって全共闘とは60年代の学生運動と重なり、また新左翼の政治闘争とも繋がって見えていました。それは関連図書が、全共闘運動と新左翼の政治闘争とを直に結びつけ論じていたからでした。
帯に「全共闘は学生運動ではなかった」とあるこの本に触れて、はじめて私は全共闘運動の多様性と人間的な豊かさに出会えたように思います。
多くの「歴史」と同じように、私は1968年という時代を、現在から価値付けし、国家や制度にとって都合の良い視点からしか見ていなかったのではないか? 私はこの本で初めて、68年の大学闘争の具体的な内容を知ると同時に、私たちの「現在」に向かって投げかけている課題が見えた気がしました。
「全共闘は、誰からも代表されず誰も代表しなかった」「自らの行動を自らが決定し、バリケードや路上を自らが主となって治める『直接自治運動』を展開した」と述べることで著者は、私たちを代表できない今の議会制民主政治に対抗して、直接民主主義の復権を提起しているのではないでしょうか。
その直接民主主義の運動が、1968年の路上やバリケードでどう実現していたのかを、著者は個人的な体験を通して語ろうとしています。
* * *
もう一つ衝撃だったのは、人が何かの行為や行動を起こす切っ掛けを根源から問おうとしている点でした。
たとえば小熊氏英二氏の著作『1968』は、「現代的不幸」が全共闘世代を大学や社会の改革に向かわせた原因である、と指摘しています。だがもし全共闘がそのような時代の産物なら、直接民主主義もまた過去の出来事の一つでしかなくなってしますます。
この本は、人が、目の前にある環境から、自らの行為や行動を提供/アフォードされることを具体例を通して語っています。1968年、路上のサラリーマンや野次馬が機動隊に投石する全共闘へと誘われていった「群衆の自己組織化」が、アフォーダンスの具体例のように語られます。
著者は、だから現在も、行為や行動は環境から提供/アフォードされるものであり、自らの直接性に基づいた自治運動は可能であり、直接民主主義を現代社会の内部に復権させようと語りかけているのではないでしょうか。
1968年に起こった全共闘運動がどんな出来事だっかを知る上でも、またその全共闘がが、現在に何を問いかけているかを考える上でも、この本は貴重な提言を投げかけていると思います。
1968と〈社会〉の挫折と可能性
★★★★★
小熊英二著「1968」に対しては、この間数多く批判がなされている。
だがその批判のほとんどは、「実体験者」の過剰な「わたし」に裏打ち
されたものであって、「みんな」という視点がない。だからなんらの生
産的な議論も生み出していない。
日大闘争を幹部層ではなく「一員」として経験した本書の著者にとって、
日大全共闘は学生運動というよりも、「神田コミューン」だった。そこに
ひらかれた、時代と経験に根差した自治空間は、地域の人々や迷い込んで
くる少年少女、サラリーマンらとともに生き、ともにつくりあげていく祝
祭空間だった。
大衆団交から政府の介入、安田講堂事件、そして全国全共闘へとむかう政
治過程の基底にあったはずのその「社会的バリケード」は、しかし、「政
治」を吸収するどころか逆に「政治」に吸収されていってしまう。著者が
いうように、ちょうど同じ年の1月18日と19日に神田お茶の水で戦われた
解放区闘争は、安田講堂事件にくらべて「問題」にされなかった。安田講
堂へと至る「政治的スペクタクル」は、政治セクトの敵対性を高めたかも
しれないが、その基底部分にある〈社会〉の内実を豊富化することはなか
ったのである。
だから、「政治的敗北」によって失われたものに悔恨を抱くべきではない、
そうではなく、「社会的敗北」から新たな可能性をつむぎあげていくべき
というのが、著者の―本書に貫かれている「みんな」への優しい目線から
―もっともいいたいことだろう。
本書では、必ずしも新しい資料や証言が提示されているわけではないとおも
うが、小熊「1968」をめぐってあまりにも矮小な「自分語り」の言説が
横行するなかで、大事な時代認識の視座を提示していると思う。