伝記ではなく、記憶或いは思い出
★★★★☆
ウラジーミル・ナボコフはサンクト・ペテルブルグ生まれのロシア人作家で、1955年に発表された代表作『ロリータ』で有名です。しかし、その一見スキャンダラスな内容のために、大きな誤解を受けている作家でもあります。
彼はロシアで生まれ、ロシア革命に伴うボルシェビキの圧制を逃れてロンドンへ亡命し、ベルリン、パリを経てアメリカへと移り住むことになります。『ロリータ』や『ベンドシニスター』を初め、彼の著名な作品は英語で書かれたものが多く、この作家の驚異的とも言える教養が伺われます。
この自伝は、ロシアで過ごした幼年期から、アメリカへ移住するまでの「記憶」を綴ったものですが、他の追随を許さない美しさと批評精神に満ちています。自然の事物や事象、作家の周辺の人々、作家自身の心象、これらを描く文章は美しく、読者によっては耽美的に過ぎるといった印象を抱くかもしれません。また、余りにも鮮明な叙述のために、ここでの記憶の信憑性に疑義を差し挟むかもしれません。
しかし、記憶というのはあくまで個人の内に留まっているもので、それを作品として提示するに当たっては、その信憑性を取り立てて重視する必要がないとも言えます。原題は”Speak Memory:A Memoir”となっており、『記憶よ語れ:ある思い出』とでも訳せば良いでしょうか。このことも、記録としての正確性より、むしろ記憶が惹起する感覚が重視されていることを示しているのではないでしょうか。
この作品においては、記憶が単なる追想を超えて、一つの文学作品にまで昇華されています。その点を踏まえたうえで、ナボコフの表現力を堪能するのは如何でしょうか。また、ベルリン在住時以降の全ての短編を収めた『ナボコフ短編全集』を併せて読むと、この作品を読む楽しみが倍増すると思います。