ウラジーミル・ナボコフによるこの作品は、独裁者が統治する全体主義的警察国家において、哲学教授のアダム・クルークが蒙る悲劇を物語の主軸としています。妻を病で喪い、友人達が次々と逮捕、投獄され、愛する息子の痛ましい死を経て、終には自らも発狂してしまいます。
しかし、1964年に執筆された（作品自体は1947年発表）作家自身による序文にある通り、「グロテスクな警察国家における生と死の物語では｣なく、｢愛に満ちたクルークの心の鼓動、深いやさしさが蒙りやすい苦悩｣が、この作品のテーマです。全体主義的警察国家は、人間の優しく美しい心情を非情にも踏み躙るあらゆる暴力の象徴なのではないでしょうか。
ナボコフのことを技巧に走り過ぎる衒学的な作家と呼ぶことは、全くの誤解に基づいたものです。その誤解を最も誘発している『ロリータ』においても、そのスキャンダラスな表層の下には、人間の心情を蹂躙することへの反抗が明らかに見られます。この作品のみならず、『ナボコフ短編全集』に収められている短編群や、『記憶よ、語れ』（自伝）においてもそのことが見て取れます。ナボコフの挑発的な面はさほど厚くないベールで、それを透かして繊細、叙情、悲哀といった語られることの少ない彼の感情を見ることは、決して困難なことではありません。
物語導入部の二ページの描写は、その美しさにおいて特筆すべきものがあります。クルークは妻が入院している病院の窓から外界を眺めており、十一月の夕暮れの光景が美しく描写されます。水溜り、風、ポプラの木･･･。そしてクルークの悲痛な独白が続きます、「手術はうまくいかなかった、妻は死ぬだろう」。私がこれまでに読んだ作品の中で、最も美しい描写の一つです。

「確かにレーニンの共産主義、ナチスのファシズムが吹き荒れた季節もあった。しかし私はあらゆる主義に惑わされず、かといってアンチでもなく、純粋な文学を書いたつもりだ。わかって欲しい。」と作者はあとがきで述べている。

　独裁者はここでは打出の小槌を振るごとに巨大化する一寸法師に過ぎない。秘密警察の監視の目は暗闇の中でわずかな光を反射する窓ガラスに隠喩化されてしまっている。まるで神話の世界の出来事のようだ。
　ちなみに題名「ベンドシニスター（平民）」は、イギリスの紋章用語。「ベンドデクスター（貴族）」に相対する語である。