太平洋戦争下のジャワ山中に建つ、日本軍の連合国軍捕虜収容所。そこでつづられる日本とイギリス双方の軍人たちの確執や奇妙な友情、そして残酷かつ美しい愛情の日々。大島渚監督が日英合作で描く、戦争ヒューマンドラマの傑作である。
キャストを見ても、デヴィッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし、トム・コンティ、ジョニー大倉、ジャック・トンプソン、内田裕也など豪華多彩。それぞれが持ち味をフルに発揮しながら、極限状態に置かれた男たちの心情を赤裸々に表現している。ラストで「メリークリスマス、ミスター・ローレンス」と唱えるビートたけしの大映しの笑顔は、映画史上に残る優れたショットでもある。坂本による音楽も大ヒットするとともに、世界的に高い評価を得た。(的田也寸志)
日本映画の名作です。
★★★★☆
世界のキタノもまだこの当時は芸人を本業にしていたのだが、この映画で一番の印象はやはり彼だと思う。
この映画が公開された頃の週間プレイボーイで、西田敏行が自身の連載コラムの中で、俳優を本業とする自分たちではなくて芸人のビードたけしやミュージシャンである坂本龍一を起用した大島監督のことをかなり酷評していたのを思い出した。
戦場というある意味特殊な状況を借りて、異文化を有する人間同士の、どちらかといえば双方の暗部を描いたという点で、日本映画の名作のひとつと思う。
Merry Christmas,Mr.Lawrence
★★★☆☆
何か寝つきが悪かったので映画が見たくて、夜中に「戦メリ」 。本当奇妙な雰囲気を持った映画ですね。
それにしても大島渚は、この人誉めれば鬼才、良い意味でけなせば変態。結局これただのホモ映画じゃん、と言い切ることもできるわけで。デヴィッド・ボウイにキスされて悶絶して気絶する教授のシーンにはもう白旗でした。そもそも教授の演技は大根だし、メイクきついし、あのキャラ設定も、いくら2.26事件に同士と共に戦えなかったという喪失感を抱いているにしても無理がある。
ここを物語の核と考えるのはつらいので他のことを書くと、まず自分より劣った民族だと思っていた日本人に支配されるイギリス人の屈辱感、日本人の死生観への激しい疑問と対立がデフォルメされているのは、原作がイギリス人であることと、海外公開を念頭に置いていた故なんでしょう。本来物語の語り部であろうローレンスは、他の役柄が強烈なため、主人公ではなく一登場人物に成り果ててるんですが、日本語と英語を話せる彼が、最もその両者の分かり合えない諦念と、分かり合えるんじゃないかという微かな希望を体現していて、その間でもがいている様が印象的だった。
そしてやはりこの頃から怪演を見せるたけしでしょうか(クレジットはTAKESHI)。有名なあれですよ。あのショットは本当素晴らしい。たけしのあの笑顔も強烈。これが無かったらもっと輪郭に乏しい映画になってつらかったでしょうね。
大島渚よ さすが見事な視点。
★★★★★
大島は戦場を舞台にこんな作品をつくっていた。大島らしい。
戦時中のジャワの捕虜収容所。タケシがきちんと役を果たしている。
オーレンスという日本で育った男がイギリスの文化と日本の文化の通訳を行っている。
坂本龍一も出てくる。
同性愛の問題も当然出てくる。戦場は人を狂わす。
日本が敗戦し、タケシがにこっと笑って死に場所にゆく場面は心憎い。
タケシがここから映画界の最高峰に登っていく出発点となる。
私達日本人にとっての『大いなる幻影』
★★★★★
この映画の撮影が始まった時、監督の大島渚監督が、「ジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』の様な映画を撮りたい」と言って居た事を覚えて居る。(『大いなる幻影』は、ジャン・ルノワール監督が、第一次世界大戦中、ドイツの捕虜と成ったフランス兵達の人間模様を描いたフランス映画の名作である。)その『大いなる幻影』の最後で、脱走した二人のフランス兵が、こんな会話を交わす場面が有る。−−「この戦争が、最後の戦争に成るかな?」「お前の幻想だよ!」−−『大いなる幻影』と言ふ題名は、この会話から取られた物である。
この作品が、『大いなる幻影』に並ぶ作品と成ったかどうか、観る人の意見は分かれるだろう。しかし、少なくとも、あのラスト・シーンだけは−−ハラ軍曹(ビートたけし)の顔が大写しにされるあの場面だけは、−−『大いなる幻影』のラスト・シーンに十分匹敵する場面に成って居ると、私は思ふ。
(西岡昌紀・内科医/61回目の終戦記念日に)
「異なる文化」へのまなざしと受容
★★★★★
この「戦場のメリークリスマス」は私が中学生の時にみた記憶がある。当時は坂本龍一の音楽への関心から足を映画館に運んだのだが、熱帯の重たい空気感とフィルムの色彩、音楽の美しさが印象的であった。ほぼ20年経過した今、改めて観直してみたが、多分に今日的な主題を持つ映画であると感じた。
本作は太平洋戦争末期における熱帯の島の捕虜収容所という閉鎖的な環境が舞台だが、そこでは過酷な戦争という環境において異なる文化的価値観(例えば、西洋と日本、キリスト教と国家神道、それらを背景としたセリアズの「罪」の意識とヨノイの「恥」の意識)を持った人々との対峙と葛藤が描かれている。この映画が優れているのは、その音楽や映像の美しさに加え、悲しい結果にもかかわらず異文化への理解を予感させるエンディングとなっている点であり、それを男女の愛情という月並みな枠組みに落とし込むのでなく、「文化の異質さと受容そのもの」を純粋に浮上させんがために、逆説的に戦争という価値観がぶつかりあうリアルな場とホモセクシャルな同性同士の交流が選択されたのではないかとさえ思える。この互いが異なる文化に立脚していても、それでも理解と受容は可能なのだというテーマはまさに今日的だ。
現在、日本では太平洋戦争時の映画が数多く制作されるようになっているが、同様に戦時中が舞台となっている「戦場のメリークリスマス」との質や内容の隔たりはどうであろう。昨今の戦争映画にお決まりの「愛するモノの為に死す」という構図の陳腐さについてはコメントしようもないが、問題なのはそういった構図の映画を受容する現在の日本の文化状況だ。その傾向に不安を感じるのは私だけではないだろう。おそらく現在、必要なのは「同質の文化」の称揚ではなく、まさに、本作「戦場のメリークリスマス」で描かれているような「異なる文化」へのまなざしと受容であるというのに。