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衆生の倫理 (ちくま新書)

価格: ¥777
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
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「クズども」について ★★☆☆☆
 本書が2008年4月に発行されたことを踏まえた上で以下を読んでもらいたい。
 著者はゲーテの『親和力』を取り上げて、主人公のエードゥアルト男爵とその妻シャルロッテの姪にあたるオティーリエの禁断の愛の物語を「現在でも東京12チャンネルあたりでドラマ化したら、立派に観賞に耐えるに相違ないストーリーだろう(P.92)」と書いている。ここにおかしな点がある。私の勘違いでなければ「東京12チャンネル」はだいぶ以前に「テレビ東京」と改名しているはずである。何故著者の友人なり編集者なりが活字になる前に著者にツッコミを入れないのか? あるいは著者自身が「俺の注釈」で自分自身にツッコミを入れないのか? それに「東京12チャンネル」ではなくてフジテレビやTBSでドラマ化した方がさらに立派に観賞に耐えるに相違ないストーリーであるはずなのだ。
 今の話が瑣末だというのであるのならば、例えばエードゥアルト男爵のオティーリエに対する「欲動」とロリコン男性の少女に対する「欲動」の違いは何なのか? 著者はロリコンと犯罪を性急に結びつけているが(P.220)それはあくまでも結果論に過ぎないのではないのか? もし私が誤解しているのであるのならば、それは著者の説明不足による。
 要は著者は「傑物を貶めず、クズどもを蔑まない、そんな批評を目指しているいい男」と紹介されているが、明らかに「東京12チャンネル」と「ロリコン」の「クズども」は著者によって蔑まされているということである。だから著者はそんな公言するほどいい男ではないはずである。
ダメ人間には、ちと読むのがつらい…。 ★☆☆☆☆
著者によると『倫理とは、いつだって「生命以上に大切なものが存在する」という確信に支えられている』らしい。
 倫理・道徳はダメ人間たる衆生を否定するものではなく、その衆生性を突き詰めた果ての地平にこそ
存在する、と言っている。
 まあ、恐らくこれが本書のスタートであり、且つ全てであろう。
「かったるいのは大嫌いだ」と著者は述べているが、256ページを費やして残った思いは「かったるさ 」
だけであった。
 最後の方では、『問題は、…われわれはなぜそんな倫理を思い切って実践に移せないのか、であった』
とも言っているけど、そうだったっけ??
 勝手な引用やら言いっぱなしの解釈。
 確かに著者は『言いたいことはすべて書いた』と言っているように、さぞ気分が良いことだろう。
もちろん読者がそれに付き合うこともない。
わたしは、なりゆきで付き合ってしまったが‥。
      ★★★☆☆
非常にわかりやすい実存的ニーチェといったところか。著者のすごいところはまったく、ニーチェを参照することなく、もっともニーチェに近い位置まで思考を行った点だろう。途中の論旨は難渋で首を傾げるところもあるが、所々に、思想的直観が非常に鋭い言葉があり、それだけで一度読み始めたら最後まで読みきらずにはいられなくなる。
ポストモダンの後 ★★★★☆
本書はまず、現代人は本当に生きているのか?ということから始まり、その「生かされ」っぷりをフロイトやフーコーやベンヤミンやマルクスで跡付けています。極めて正統的なポストモダンの議論。要約もうまい。マンガや幕末の志士など無関係な事象を強引に結び付けてしまうのも面白い。「大衆」ではなく「衆生」という言葉のセンスも抜群です。

驚くべきスピードで展開されるその議論が本当にすごいのは、その後。平日は働かされて搾取され、休日はパチンコで遊びながら搾取されるダメダメな衆生こそ、フロイトのいう欲動に忠実な、新しい倫理的な主体の出現なのである、と言い切るところ。しかも論理的に。衆生バンザイ。

そのどこが「倫理」なのかは本書をご覧いただくとして、「俺」的な放言は見かけだけで、かなり骨太な「ポストモダンの後」の倫理追求の書なのは間違いありません。問題はポストモダンの後における倫理ではなく、倫理のポストモダンの後的なあり方、なのです。「倫理」自体が変容するというのがキモ。

いろんなものを持ち出しすぎて無駄に複雑になっている気配がないわけではありません。特に神秘思想のくだりは必要なのか、必要だとしても少々迂遠ではないかと気になります(いちばん熱いところですが)。が、自分の頭で徹底して考えているのは確実。幕末やゲーテやベンヤミンにハマったことがある身としては、何重にも楽しめる本でした。
我らダメなゆえに正しき ★★★★★
著者久々の書き下ろし新作である。今回は現代における「倫理」の意味を直球勝負で問うた大真面目で少々難解な論考であるが、雑駁だが要所をはずさない知識と教養に基づく放言的ながら筋の通った文章が相変わらず粋で魅力的で楽しい。例の「俺の注釈」も復活してファンとしては嬉しい限りである。例えばカフカの『城』は、「測量技師のKが『神学的放置プレイ』の憂き目に遭う」作品、といった感じ。
なんかもう皆が皆、自分の「生命」を至上の価値とし自分の欲をかなえることに見境なしな状態の昨今、はたしてそうしたダメ人間の境地を超え出て行く確固とした倫理的な決断はありうるか、と著者は問題提議する。
まずその様なダメダメな現状をフロイトの精神分析やマルクスの労働論を参照しながら分析し、さらにそうした現状に追い込まれてしまった原因をフーコーやアーレントの社会理論によりながら解読し直してから、さらにベンヤミンの思想やユングの夢想に頼りつつその突破口を探していくのだが、まあとにかく結論はこうだ。
善悪とか人生の意味とかいった高尚なテーマを捨て去り欲欲しくやりたい放題のダメダメな人間こそ、実は既にして倫理的な決断をなしうる至上の境地に到達している!なんと我ら衆生のダメな状態は、そこから超脱することで正義に近づくのではなく、今あるそのままで正しかったのだ…。この親鸞の悪人正機ばりに逆説的な発想を、著者はエックハルトらの神秘主義や鈴木大拙の禅が探求していた神聖なる「全体」のレベルが、現代人の精神状況とほぼ等しいことなどを論拠としながら熱心に説教していく。
正直言って「は?」ってな感想があり、納得いかないのだが、しかし本書を通読すれば、著者の見解が「論理的」には当たっていることがよくわかる。「道徳的命題はそれが正しいがゆえに正しいのである」から守らなきゃねというカント的な論理と、「自分の欲には従うべきであるがゆえに従うのだ」という現代人が行き着いてしまった見境なき自由の論理は、等しいのである。そこに個々人の肉感的な願望は入り込む余地はなく、ただ形式的なモラルと欲の力だけがすべてを支配している。
この形式を保守する一本気な精神こそが、他ならぬ「倫理」だ。というわけだが、はたしてどうだろうか?