誰しも思春期の頃「俺は実の子じゃないんじゃ?」って思うけど、その微かなる疑問って、捨子なんじゃ?とか私生児なんじゃ?って具体的なことではなく、もっと漠然としたそこはかとない不安である。それは、自己の起源を人一倍知りたくとも決して本人だけは知ることが出来ないってことの恐怖、絶望感である。そして人は、起源を知りえることの出来ない、言わば勝手に与えられた「自分」という物語(自己と言う名の他人)を生きざるをえない存在なのである。
「その言葉そっくり返す!」じゃないけど、他人に対する評論こそがそのまんま鏡像のように当人のことを言い当てているっていう本著に頻出するエピソードも、自己は直接自己を知りえないってことを逆説的に示しているのかもしれない。
しかし、生れ落ちた瞬間からハンディカム、あるいはDNA鑑定の発達って世の中は、いくぶん文学のなりわいを変えてしまいはする。まぁヴァーチャルリアリティ技術とか遺伝子操作とか“出生の秘密”はいつまでもなくならない訳だけど。