インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

出生の秘密

価格: ¥3,150
カテゴリ: 単行本
ブランド: 講談社
Amazon.co.jpで確認
想像から象徴へ マサシ ゲ童子とはたれ? ★★★☆☆

マサシ(ゲ)童子は、いま、おいくつなのでせうか?


「身体の零度」を読んでから、わたしは三浦雅士のファンです。その「身体の零度」については、135ページにて言及されています。《現象学的還元とは、簡単にいへば、世界から意味を剥ぎ取つてしまうということだ。世界を裸にしてしまうこと。乳幼児期を追体験すること。…(略)…つまり狂気に陥ること》。象徴界から未分化なその還元へ、子供の懐疑へ、インデクスへ、そして狂気へ…。この瞬間、わたしは「出生の秘密」を読むことを中断し「身体の零度」を読み返してしまいました、これも狂気なのでしょう。
もう一冊、触発されて読み返した本があります。松田修氏の「刺青・性・死(しせい、せい、し、と読みます)」です。この本のなかで松田氏は、律令国家の成立とともに、制度的だつた古代の刺青がなぜ消失したのか、繰り返し自問自答しています。その回答のひとつが222頁にあります。《鏡以前にはなんらかの身体装飾、おそらくは刺青が、鏡のようなものとしてあったことは疑いない。それは必要とされたのである。鏡の登場とともに刺青が消失した》。さりげなく書いてあるけど、すごい! この記述のすべては直感なのだろうけど、古代律令国家の法制度を察知している!   
芥川龍之介に関する章で、話題は象徴-指標の記号論から、一種のエディプス・コンプレックス論、あるいは僻み論へと移行していきます。
この本の白眉はなんといっても漱石…。私はここを読まずには、「虞美人草」、「それから」、「彼岸過迄」など、到底読めそうもありません。

それにしても“マサシ・ゲ童子”とはだれ?! 実は「出生の秘密」の作者、三浦マサシのことではないのですか?
僻みの文学 ★☆☆☆☆
目玉はなんといっても漱石。これを僻みの文学と喝破した手並みは鮮やか。(老子の哲学だけ持て余し気味なのもご愛嬌。無理な注文かもしれませんが白文に三浦氏ご自身の読みをつけて欲しかった)
 ヘーゲルに入ると議論は急に壮大になる。その当否は法の哲学に即して議論しないと判定は不能。だから眉唾ものといえばそれまでだがそんなにまじめに受け取らなくても良いのでは。ヘーゲルの原点はルソーにありという論定が面白く読めることは否定できないでしょう?ディドロがすでにルソーに感じた気味悪さが示すように、近代はたがのはずれた時代だ。私などまたルソーを読んで見ようかな、精神現象学にも思い切って挑戦して見ようかな、などと思ってしまいましたよ。論者もって瞑すべし。
 ひとつ著者に注文があります。引用文献表をつけてください。出版年とまではいいませんが、出版社は入れて欲しい。文学畑では文献表をつけない習慣かもしれないが陋習は打破。それから引用箇所はやぼったいかもしれないけれど括弧でくくってほしい。精神現象学の引用部分を長谷川訳に統一するのも親切といえば親切だが、引用のあとに「なお長谷川訳では」とした方が良くはないか?
これは転向声明か、退却宣言か? ★☆☆☆☆
 あとがきによれば、著者は何かに憑かれたようにして本書を書き上げたらしい。しかしそれは、批評においては危険な徴候ではないか?
 同じくあとがきで、著者は幼い頃に見た母と妹の後姿の記憶に触れている。「あるいは偽の記憶かもしれない」(p613)。「けれど人間は、この錯覚、この錯誤を生きつづけることを選び、生きつづけてきた」(p615)。この母の追憶への沈潜は想像界の肯定に酷似しつつも、結局は自堕落な開き直りの言葉でしかないと、私は思う。想起されるのは蓮實重彦のマクシム・デュ・カン論だ。
 本書の「出生」という語には、時間軸に沿って水平に遡られる「私という現象」の起源と、この「現象」の今・ここを垂直に貫く根源の両方が含意されている。叙述はこの2つの軸を自在に往還しつつ撚り合わせて「物語」を紡ぎ出すのだが、これは発端部と終結部に置かれた丸谷才一の小説の構造を反復している。そして著者の弁明にも係わらず、この反復がラカンを導きの糸になされていることは否定しようがないだろう。
 しかし巻末近く、共同性の問題へと向かうに及んで、ヘーゲルやラカンの名の下に実は吉本隆明や岸田秀が参照されているという印象を受ける。「宗教も国家も実在しない。それは幻想でしかない。だが、幻想も信じられれば巨大な力をもつ。つまり逆に、幻想こそが実在することになる。国家や宗教において起こっていることは、自己意識において起こっていることと同じなのだ」(p591)という主張は、反動的としか言いようがない。
 あとがきの結語、「言語空間の探求はいまはじまったばかりなのだ」という1行は欺瞞だ。著者は本書によって、探求の途を閉ざしている。なぜなら、母への回帰は言語空間の探求からの退却に他ならないから。
自己の起源を知りたくとも本人だけは知ることが出来ないという恐怖 ★★★★★
 前著「青春の終焉」も相当面白かったけど、本著はそれを超えている。
 「出生の秘密」って言えば「冬ソナ」とか「赤いシリーズ」のあれである。それは間違っていない。でも著者の捉え方はこうだ。
 「実の父、実の母が誰であるか、が、秘密なのではほんとうはない。その地点が自己にはつねに隠されているということ、そして、自己はつねに遅れてその地点に到着する、いや遅れて到着することこそが自己なのだということ、それがむしろ秘密の核心なのだ、と。」

 誰しも思春期の頃「俺は実の子じゃないんじゃ?」って思うけど、その微かなる疑問って、捨子なんじゃ?とか私生児なんじゃ?って具体的なことではなく、もっと漠然としたそこはかとない不安である。それは、自己の起源を人一倍知りたくとも決して本人だけは知ることが出来ないってことの恐怖、絶望感である。そして人は、起源を知りえることの出来ない、言わば勝手に与えられた「自分」という物語(自己と言う名の他人)を生きざるをえない存在なのである。

 「その言葉そっくり返す!」じゃないけど、他人に対する評論こそがそのまんま鏡像のように当人のことを言い当てているっていう本著に頻出するエピソードも、自己は直接自己を知りえないってことを逆説的に示しているのかもしれない。

 しかし、生れ落ちた瞬間からハンディカム、あるいはDNA鑑定の発達って世の中は、いくぶん文学のなりわいを変えてしまいはする。まぁヴァーチャルリアリティ技術とか遺伝子操作とか“出生の秘密”はいつまでもなくならない訳だけど。

気がつけば生れていることについて ★★★★★
鬼気迫る。三浦雅士のおそらくは最大のテーマである「私という現象」の、その起源の謎を解くための超力作評論である。私の人生という名の言語空間、すなわち文学なるものをめぐって格闘する著者の文芸はすさまじい。
丸谷才一の短編小説を読み解くことからスタートする本書は、つづいて中島敦が生涯に渡り持ちつづけた、現実を解体するまでの子供のような問い、芥川龍之介が抱えていた単調で平明な寂しさ、夏目漱石をひたすら突き動かしていたひがみ根性、と、近代日本文学の急所をひとつひとつ押さえ考察しながらヒートアップしていく。その考察の手段として用いられるのは、パースの記号論、ラカンの精神分析、そしてフロイトに端を発する家族と愛欲の理論である。そこで使われる理論の要点のみを簡明に紹介する著者の手際におそれいる。
圧巻なのは、最後の三つの章だろう。漱石文学の本質をつかむことがヘーゲル弁証法の再吟味へとつながり、ついには人間にとりついた精神の運動の根源に光があてられていく。動物的なものを抑圧し「孤独」や「魂」を手に入れた人間存在の、ある種の悲哀が語られていて感慨深い。
「あとがき」によれば、書き始めた当初はこんな風な作品になるとは思っていなかったそうである。出来上がった完成品のすばらしさだけを知っている読者としては、そこに神がかり的なものを感じてしまう。あるいは、三浦雅士という現象(by柴田元幸)の背後にある無意識の奥深さに、慄然とせざるをえない。