韓国併合は必然であった
★★★★★
著者は高宗とその妻、閔妃と高宗の父の大院君の心理情況に視点を当てて叙述しているようである。確かにその意味では評伝ではあるが、この三者の行動するところが公的なものに依拠していないで、自らの個人的な安全ばかりを志向しているという点で、国家としての李朝末期と大韓帝国の弱弱しさを見事に反映させている著作ということができる。
その弱さが隣国であるロシア、清国、日本に付け込まれる要因となっている。日本にとってはこの弱さ、あっちフラフラこっちフラフラの高宗=韓国が信頼できないものと映り、二度の戦争の原因となってしまったわけである。信頼性のなさは韓国の保護化という事態に立ち至るが、それでも高宗はハーグ平和会議に韓国の自立を願おうとする。こういう訴えが韓国の自立とは無関係なことは明らかで、列強に無視されるのも当然である。
閔妃の暗殺にしても、背後には対立する大院君がいる。高宗の父である。日本人が関わっているのは確かだが、本質の問題は卑小な高宗の家庭の問題である。その家庭の問題が国家の問題に関わるから、日本は国家安全保障という見地から関わらざるを得ない。
この意味では韓国併合も同じことだろう。好んで併合したのでないことは、併合の詔書に「已ムヲ得サル」とあることによっても分かる。福澤諭吉の「脱亜論」のように謝絶することもできない。弱い韓国を面倒見なければいけなかったわけである。
いろいろと
★★☆☆☆
膨大な一次資料を駆使し、李氏朝鮮の姿を描き出している。
しかしいろいろと問題もある。
何より本書の内容では保守派を利することになりかねない。
そして多くの朝鮮人民のいうコジョンの姿を描き出していない。
大学研究の限界でもあるのだろうけれどもはや研究だけであつかっていい
領域ではないのではないか。
その点からいっても本書の存在を許されないものなのではないだろうか。
「歴史」はよくわかる。しかし、「人物」と「人間」は何処に……
★★★☆☆
著者は気鋭の韓国専門家。評価も高い。そんな著者の本である故、期待も自ずから高まると言ったところだったが……。
著者の基本姿勢は「一次資料」を駆使した「客観描写」である。それは、それで文句のつけようがない。しかし、だからと言って、著者の「評論」が全てにおいて「客観的」であるかどうかは別の問題である。
本書は「狙い」は、「韓国史そのもの」ではなく、「人物・人間」を扱ったものであろう。ならば、そこには「歴史を背景」とした「人物評」「人間考察」がなければ、その「体裁」をなさないのではないか。
著者は、主人公の「国政を左右する決定の心層」については、「どこそこ」で、まさに学者然として「資料がないからわからない」としているにも拘わらず、主人公の「真相」として、「自身の保全」を「第一」に上げ、人間としての「それ」を安逸に「単純化」してしまっている。
ことに「韓国併合後、宮中が保全」されたことについて、「それ故」に「主人公にとって歴史的意義ほどには劇的でなかったかもしれない」と「考察」している。ここに著者の「人間としての想像力の限界」を感じてしまう。仮にも500年続いた王朝を、「自分の代で消失した王」が、「宮中の保全を担保にした」だけで「劇的」でないということがありえるのだろうか。しかも、併合した国の「壮士」たちの「最愛の妻」にした「事件」を考慮すれば、尚の事ではないか。
主人公の「政治家」としての「質」を問うに、著者は「彼の目線に立つ」ことを主眼としたらしいが、これでは、「著者の併合した側の国民の視線」に「彼」を合わせたとしか思えない部分がままある。
翻って見て、日本の歴史もしかりである。先の大戦が「何をもたらしたか」という「視点」は日米では「大きく異なる」。だが、たとえ、アメリカ人の誰かが、「資料」から、「日本政治家の誤謬」を「人間の質」まで問うて、そこから、あたかも「日本の、アメリカのお蔭の敗戦後の安定と発展」を「引き出した」ところで、そこに「大段に構えた歴史以外」に何が「のこる」のか。いわんや、「人物を語る上」で何が「わかる」のか。
他国の「歴史」もまたしかりである。「人間の歴史」とは「国家間資料」だけで「安逸に推論」できるわけではない。だからこその「主人公の目線」ではないか。
「高宗・閔妃の真実」に、本書は残念ながら「人物としてほど遠い」と思わざるをえないが、ただ、「国王と中心とした外交資料の歴史本」としては、その価値は揺ぎ無く、間違いなく著者の「力作」である。日韓ウオッチャーにとって、著者の「リード」は別として、「じっくり」と「主人公の心情」を「自分の身に置き換えて考える」のには、本書は決して「軽くない」。
激動の時代を生きた「人間・高宗」への関心
★★★★★
本書が取り上げる高宗に限らず、君主や国家元首に対しては、どうしても「かくあるべき」という規範が先行した見方を、下々の民草の一人としては持ってしまうものである。
そのような中で、王として朝鮮王朝末期の激動の時代を経験した高宗に対して、等身大の人間としての生き様に迫ろうとする著者の筆は、明らかな異彩を放っている。当たり前のことだが、かくあるべく求められる王である前に、高宗はまず少年であり、青年であり、夫であり父親であったのである。「暗愚であった」と言ってしまえばそれまでであるが、ひとたび目線を高宗と同じ位置に据えてみれば、思うようにならない状況を前に、それでも何とかしようと苦闘する一人の人間の姿が浮かび上がってくるのである。
高宗をめぐるこうした人間理解は、おそらくは著者自身の人間理解と密接不離の関係にあるのだろう。こうした関係は、その人間のライフステージと連動している。若さをほしいままにした時期を過ぎ、何かを失ったのと引きかえに、見えてくるものがある。何年か、あるいは何十年か後に読み返してみれば、書き手にしろ、読み手にしろ、いま読むのとは違った読みをするようになっているはずである。
(そのあたりの事情は松浦玲『還暦以後』に詳しい。併読をお勧めする。)
英雄ならざる重要人物の歴史
★★★★★
日韓両国における外交文献をはじめとする一次資料をふんだんに使って、高宗夫婦の真実の姿に迫った良著。文章もこなれていて読みやすい。