映画の否定的な評価だけは
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すでに100年も前の著作ですが、例の「エランヴィタル」が炸裂しています。宇宙の始まりにあり、常に変化し続ける生命現象の元になっている複数の「弾み」。すばらしい。ひとつの起源からはじまる「機械論」も、ひとつの終わりを目指す「目的論」もともに批判する複数性と偶然性の哲学的生命史。あー癒される。
後半、批判をわかりやすくするために「映画」が比喩的に使われていますが(持続を止めてしまうこと、偽の連続を作り出すこと)、ベルクソン哲学の精髄と映画は必ずしも相反するものではないということをドゥルーズさんが「シネマ1」「シネマ2」(ともに法政大学出版局)で一生懸命に展開しておりますので、そちらでさらに癒されましょう。
読みやすく、哲学的脈絡も分る新訳
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ベルクソンは、本書において、当時影響力を強めつつあった進化論を参照しながら、生命の本性にもとづいて、人間の思考の特異性を明らかにしようとした。第4章は「思考の映画的メカニズムと機械論の錯覚」と題されており、登場したばかりの映画をうまく例につかって、ゼノンのパラドックスなどに新しい光を当てている。映画は、静止画像を次々に交替させるだけなのに、スクリーン上ではものが動いているように見える。この対比が、悟性的・静止的思考と躍動する生命とに類比されるのだ。本書は難解な『物質と記憶』とは違って、読みやすく、興味深い論点も多岐にわたっている。「無」の問題を扱う箇所も面白い。たとえば、「なぜ、何ものも無いのではなく、何かが存在するのか?」というライプニッツの問いを論じる箇所を、旧訳と比べてみよう。(岩波文庫訳)「存在は無の征服として私にうつる。何もなくてもよいし、それどころか何もあるはずはないのだと私は思い、しかも何かがあるのに驚く。」(p324)/(本訳)「存在は無の征服として私に現われる。私は、何も存在しないということがありうる、いや、そうでなければならないとさえ考える。それで、何かが存在することに驚くのである。」(p349) 後者の方が、哲学的思考をより正確に反映している。
「ベルクソン理論」は今も健在
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ノーベル賞(1965年)分子生物学者ジャック・モノーMonod, Jacques Lucien (1910-1976)は、彼の本「偶然と必然」(みすず書房)の第II章で、ベルクソンを「形而上学的生気説」の最も著名な推進者と呼び、「私の少年時代には「創造的進化」を読んでおかないかぎり大学入学資格試験に合格することはおぼつかなかったのであるが、今日ではこの哲学はほとんど完全に信用を失ってしまったように思われる。」と書いている。ベルクソンは、この本の中で、自分は生物進化に関しては「生気論」も「機械論」も支持していないと書いている。しかし、彼の「生のはずみ」or「生の躍動」or「エラン・ビタール(elan vital)」は、世の学者からは「生気論」の一つと見なされており、皆が知っての通り、生物学上ではLife Forceを想定するこの考えは前時代的遺物とされている。すなわち、生物進化を説明するのに、科学的観点からは神秘的なLife Forceを仮定する必要はなく、生物進化はDNAに組み込まれたソフトウエアとタンパク質のハードウエアが一体となって、自然環境への「適応」と環境下での「突然変異」により、ソフトウエア・プログラムを実行する結果として説明できるとの、「機械論」が正当理論とされている。にもかかわらず、この本は正統派の博物学者や生物学者ではない、しかし、その時点までの科学成果・知識を彼の可能な限りの調査で消化した上で書いた本であり、正統派の独善的な考えに批判的態度で書かれているため、進化論の本質を勉強する上では大変貴重なものといえるでしょう。
さて、仮にベルクソンがいまいたとしたら、それでも正統派に反論するでしょう。即ち、「それでは聞きますが、そのDNAを創造したのは何でしょうか?」と。この質問に答えるには、進化のまえにダーウインも保留した問い「生命の起源」を説明する必要があります。その答えは未だ誰にも分かりません。ベルクソンは、その起源にも「エラン・ビタール(elan vital)」を想定しなければならないでしょうと応えるでしょう。
さて、「生命の起源」の説明に何か神秘的なもの(つまり、現代科学では未だ説明できないなにか)が必要なのでしょうか?私見になりますが、私は必要だと考えます。その根拠は、現代科学の二つの基本理論(Fundamental Theories)「ビックバン宇宙論」と「ダーウインの進化論」には重大な疑問があるということです。それは、現代科学が英国の「心霊研究協会(1882年創設)」の集めたデータを全くドグマ的な偏見を持って無視しているからです。この偏見は科学実験で言う「統計的エラー」に相当すると私は考えます。よく知られているように、世界的に著名な霊媒は、一時的とはいえ、「人を物質化し、その人は我々と同じく呼吸し、歩き、記憶をもち、話す」、という事実です。心理学者はこの現象を「集団的幻覚(Collective hallucination)」と言って退けます。しかし、「ビックバン宇宙論」は、実験室の霧箱で観測された宇宙線による「電子・陽電子対生成(1932年)」の発生(時間にして1 ms以下の短時間現れる)をベースに、我々の物質世界は、「粒子・反粒子対生成」で始まり、その中から全ての「反粒子」を「粒子」との対消滅で消滅し、僅かの「粒子」を残して、できあがったと説明していますが、この非対称な現象を説明する実証された(CP Violation mechanism)理論は未だありません。この理論では当然、霊媒による「物質化現象」を無視しています。生物学によると、人間は母親が妊娠してから約10ヶ月後に誕生し、霊媒が一時的とはいえ僅か数分で「我々と同じく呼吸し、歩き、記憶をもち、話す」人間など創り出すことなどあり得ないと言って、無視します。このように、科学では説明できない仕方で、「物質化現象」・「一時的人格の物質化」の事実が100年以上昔から知られています。私は最近米国の主流ではない科学誌「The Journal of Scientific Exploration」Vol.24/No.1/pp. 5-39 (この科学誌は米国版amazon.comでon sale)に「魂の目方は21グラム」のミームの基になった1907年のダンカン・マックドューガルの実験論文の正当性を理論計算シミュレーションで支持する論文を発表しました。この実験は追試実験が無いために、科学者からは無視されていますが、もし独立な実験がマックドューガルの結果を確認すれば、「エネルギー保存則」の破れが実証されることになります。極論すると、「あの世」の在る可能性が示唆されます。すると、「この世」と「あの世」の間にどのような往き来があるのかが問題になり、ベルクソンの神秘的な「エラン・ビタール(elan vital)」なるものが在ってもちっとも不思議ではなくなります。あなたはどのように考えますか?
時代との壮大な知的格闘の成果
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科学の限界を画しようとする試み、あるいはそもそも科学的結果のなかで哲学しようとする試みは評価が難しい。その後の科学の進展によってあっけなく反駁される可能性がいつも付きまとう。未来にまだそのような試みが問いを提示しているとすれば、なぜにしてその著者はそのような見解へと導かれたのか、という問いがその一つだろう。この本もまたそのような運命にあったと言ってよい。
この本を上の観点から読むとき、まず気づく大きな点は、ベルクソンには確率に関する考察がないことである。あるいはあったとしても、ある事象が確率的であるとはその事象が単に偶然に生起することと考えられていることである。ベルクソンには機械論的な(あるいは目的論な)決定論と、予見できない創造の二つしか存在していないかのようだ。現在の進化論は、進化は基本的に確率的事象であると考える。したがってベルクソンの進化論批判は重要な点をまったく扱っていないことになる。
確率に関する考察が無いことはなにより、ベルクソン自身のl'elan vitalの存在論証にかかわっている。なぜなら、この論証の主要部分は、異なる進化の系列において、極めて似通った機構をもつ器官が発生するということは機械論的には説明不可能であるとするところにあるからである(p.296)。しかし確率的であることは「単純ないたずら」では決してない。
だがこの批判はフェアではない。確率に関する考察の欠如は、ベルクソンのが見落としよりは、時代的制約によるものが大きい。原著は1907年の刊行である。その時代、確率に関する哲学的考察はまだ初期の段階である。確率が科学に全面的に登場し始めたばかりである。確率を用いる進化論や、統計力学、量子力学などはまだ黎明期か、まったく存在していないかだ。
にもかかわらず、おそらく時代的制約以上のものがあるだろう。それはベルクソンの物質概念に見られる。その物質概念は、おそらく「意識」や生命に対比する目的によって(p.158)、あまりに狭いものである。ベルクソンの捉える物質は不動であり、外力が無ければ変化せず、創造もない。知性による科学が扱う物質をそのような狭い概念における物質に限定した上で、その不十分性を説こうとするのは不当ではないか。時代錯誤であるが、そのような物質概念は現在ではもはや科学の扱うようなものではない。量子力学以降に提示される物質概念はそのような不動なものではない。ベルクソンが批判したい知性の営みとして、幾何が象徴的に挙げられている。しかし、物質の配置としての幾何学という見方はおそらくこの本の書かれた時代でさえ、幾何学に対する偏狭な見方であろう。
とはいえ、このような狭い物質概念は途中で破棄される。『物質と記憶』でそうであったように、物質概念はやがて持続という概念によって、生命や意識の観点から統一的に語られるようになる。そのようにして初めて物質概念はその狭い捉え方から解放される。だが、最初に提示され、それに基づいて知性の限界が指摘される物質概念はあまりに狭すぎるのではないか。
このような物質の捉え方は、現代でも日常物理学の中にある。したがって、今なお科学に対してそのような捉えかたをするとすれば、それは日常物理学と物理学の混同であると言えるかもしれない。もちろん、ベルクソンに対してそのような謗りが可能であるかは分からない。しかし、ベルクソンには日常物理学と物理学を同じとみる傾向がある。科学は日常の延長である(p.392)。ベルクソンにとって科学は、物質を支配するための方法でしかない。科学を支配するのは有用性であり、真理は科学のために取っておかれていない。
そして我々はここでおそらくもっとも根本的な思考の動向に出会う。科学に真理の主張が認められないのはなぜか。もちろんのこと、真理は哲学に取っておかれているからである。つまり、哲学は科学から(その扱う対象において、あるいは方法論に)独立したものであり、かつ、哲学は科学の覆い隠す「真理」を発見するのであるという、学問観がここにある。これはおそらく、19世紀後半に生まれたローカルな学問観ではないだろうか。(そしてこれを逆さまにしたのが自然主義である。)
私には、科学とまったく峻別される哲学という見解によって、科学がなしうること(知性がなしうること)が不当に狭く見積もられているように見える。おそらくベルクソンの時代でもその捉え方は狭いだろう。現在の発展を見れば言うまでもない。哲学は独自の真理を捉え(p.236)、科学とはまったく対立するものである(p.402)−−ベルクソンを終始導いているのは、そのような哲学観である。
以上すべてのことは、ベルクソン側からすれば単純な点によって反論できるかもしれない。すなわち、科学はその方法による限界につきあたり、持続(物質は緩んだ持続であるということ)をいくばくか取り込んだのだと。現代の科学の展開は、まさにベルクソンがこの点で正しいことを示しているのだと。そのような主張がどこまで妥当なものであるかどうかは、私には分からない。