俺はこんな哲学は厭だ
★★★★☆
ベルクソンは哲学者ではないような気がする。哲学とか思想とは(ここではとりあえず二つは区別しないが)、思考された内容と、実在との対応関係を素朴に想定する必要はないようなところで成り立っているような気がする。数学のトポロジーとか、詩とか、非常に形式性を重んじる古典芸術などに、リアリティを感じることがあるのと同じように、すぐれた哲学思想は、実在との対応関係とは別なところで、世界の本質を示すところがあると思う。ベルクソンは、観念論と唯物論という二元論を越えようと、従来のいずれにもないようなイマージュを考える。けれど、ベルクソンの世界は、実在との対応関係にとても拘っているように見える。ほとんど心理学と区別がつかないほどに、身体の器官、神経系との関係を模索する。結局、独特な立場と言いながら、その前提に、世界の多様性を見ている「普通の意識」があって、それを問わずに、そこに描かれる世界に、もっとも近い姿を描こうと、語彙を駆使しているようだ。結果、「みかけ」に叙述を合わせようという努力が先行した、疑似科学のいかがわしさが浮かび上がる。何よりも本書で展開される著者自身の目線はなんだろう。唐突に超越的で、特権的でありさえするが、それは問われることはない。フッサールの現象学の「意識」とベルクソンのイマージュは、永遠に触れ合うことのない世界だ。それを安易に合体させる試みは、自分には、フッサールの改悪にしか見えない。アルフレート・シュッツは、ベルクソンの影響を示すまでが本領だったし、メルロ・ポンティは、「身体」を持ち出した段階で終わっていると思う。現象学とベルクソン、断じて接触してはいけないと思う。一方、ウィリアム・ジェイムズの世界は、幸いに、ベルクソンとは無縁だと思う。
もっと想像を逞しくすれば道元禅師の時間意識に繋がるたいへん興味深いところでもある
★★★★★
経験主義と知性主義、あるいは実在論と観念論の二元主義を乗り越えようとする姿勢は一貫している。それがベルクソンの思想だといっていいだろう。二元論を徹底化することによって二元論を乗り越える、これは必然だ。だが、積極的にその成果はといえば、それは期待できない。失語症や言語疾患の瑣末な解説と批判が前半の大半を占めているので、やや退屈で心理学者や大脳生理学者でもないかぎり理解するのも覚束ない。が後半はところどころはっと目の覚めるような思考の閃きがあるので侮れない。1950年代以降、なるほどメルロ=ポンティーが知覚する身体の問題に広大な地平を切り開いたのも十分頷ける。身体図式、生きられる身体、他者と自己の問題、精神と身体の超克等々言及されている。
中心概念である「持続」に関係して、現在を数学的点としてではなく「不可分の現在、時間曲線のこの無限小の微分的要素を固定できるとすれば、それが指し示しているのは未来の方向であるだろう。・・・『私の現在』と呼ぶ心理学的状態は、直接的過去の知覚であると同時に、直接的未来の限定でなければならない。」(P197)
「私の現在は本質からして感覚―運動的なものなのである。」(P198)
「空間はわれわれの外にあるのでも内にあるのでもないということであり、空間は諸感覚の特権的な一集合には属していないということである。すべての感覚が延長を分有しており、すべての感覚が程度の差はあれ深い根を延長のうちに張っている。」(P308) さらに「空間とは、現実的運動がその上に措定されいるところの土台ではない。反対に現実的運動のほうがみずからの下に空間を置くのである。」(P309)
つまり身体とはけっして動いて止まない実存であり、時間性と空間性を切り開く地平なのではあるまいか?