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原爆の記憶―ヒロシマ/ナガサキの思想

価格: ¥3,990
カテゴリ: 単行本
ブランド: 慶應義塾大学出版会
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無数の声、無数の記憶 ★★★★★
書店でたまたま手にしました。

本を開くと、日の降り注ぐ縁側にひとり、横たわる少年の写真が現れました。
遠い夏の記憶をたどるような懐かしい風景。
ただ、そこは原爆投下直後の広島。
彼はすでに息を引き取っていたことを、説明文で知りました。

本書は、原爆の記憶を、その体験を、核廃絶、核なき世界という未来へ
つなげるための提言の書です。

原爆についての記憶は、本書が分析しているように、
本来、多層的、多声的なものです。
国家レベルの記憶だけが存在するのではなく、
原爆を投下された広島市、長崎市といった自治体レベルの記憶や認識もあり、
それぞれの主張や言説には異なる面もあります。
それに、本書でさらに詳細に分析されていますが、朝日新聞や読売新聞といった
全国紙と、中国新聞や長崎新聞といった地方紙のメディアの言説にも
それぞれの主張があり、差異があります。
そして被爆者個々人の無数の声。
さらには、投下国アメリカの原爆観もあります。
アメリカ政府としての公式見解はありますが、国民すべてがその公式見解を
正しいと思っているわけではありません。原爆そのものの実態を広めようと
努力されている方々も存在します。

つまり、〈原爆の記憶〉といっても、そこには、一枚岩的な〈記憶〉があるのではなく、
多層的、多声的な無数の〈記憶〉があるのです。

「唯一の被爆国/唯一の被爆国民」と言いますが、本書によれば、実際に
原爆投下によって被爆した人びとには、強制連行された朝鮮人(500人くらいいるみたいです)や
中国人も多数含まれていたし、マレーやインドネシアなどの東南アジアからの留学生とか、
アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアといった連合軍の捕虜などを含めると、
21カ国に及ぶ国籍の人々が被爆し、亡くなっているそうです。
それに、劣化ウラン弾は原子爆弾とは認められていませんが、放射能汚染をもたらす
通常兵器で、この兵器は、湾岸戦争やボスニア、コソボへの空爆、最近では、
アフガニスタン侵攻、イラク戦争などの実戦でも使用されているようです。

今年、核廃絶運動の先頭に立ってきた井上ひさしさんや、
山口彊さんをわたしたちは喪いました。

オバマ大統領が「核なき世界」を目指すことを宣言し、
核廃絶の機運がかつてなく高まっているいま、
わたしたちは、これら多層的、多声的な声の何を残し、
何を後世に伝えていくべきなのでしょうか。

核兵器がもたらす放射能汚染の怖ろしさを説き、
原爆とは何だったのかを、
あらためて深く考えさせてくれる本だとわたしは思いました。
開かれたことばをつくる ★★★★★
私には韓国系アメリカ人の友人がいるが、
彼女と原爆について語るのはなかなかシビアである。

彼女はとても理知的な人だから、アメリカが原爆を投下したことについて、
決して是認したり、擁護したりするわけではない。
こちらも彼女の手前、直接的にアメリカを非難したりはしなくて、
その怖ろしさを語ったり、どうやって原爆の怖ろしさを
世界に伝えてゆくべきかを一緒に考えたりするのだが、
なんだかうまく気持ちを共有できない。

何というか、彼女ははっきりとは言わないが、やはりこの本でも
触れられているように、原爆投下によって戦争が早期に終結した、
それによって多くの命が救われたという考えが
彼女にもあるような気が会話の行間に感じられるのだ。

そして彼女は韓国のハーフでもあるから、
やっぱり戦中の日本の侵略行為についても、
ほんとにときおり、批判することもある。

毎年8月6日、9日には広島・長崎両市長が平和宣言を
読み上げ、核廃絶を唱える。もちろん、この日に
あらためて平和を誓い、核廃絶を唱えること自体は
大切なことである。しかし、なぜか、言葉が自分には響かない。
世界に向けて届く言葉なのか、確信を持てないでいた。

あるいは、私はNYで核廃絶を訴える日本人のデモをたまたま
旅行中に見かけたことがあるが、オバマ登場前のことだったし、
アメリカ人の反応は奇異な人々を見るような、とても
冷ややかなものに感じられた。

そしていま、被爆者の高齢化は進み、証言者の数は
少なくなるばかりである。そう遠くない将来に、みなさんが
他界された後、その記憶は、もちろん証言録のようなかたちで
残ってはいくだろうが、その個々の記憶は、いま現在の
私たちの地点から、意味づけられ、文脈を与えられ、言説化される。
つまり、歴史化される。

私たちは、原爆の記憶をどのように歴史化すべきか。
原爆の惨さを、戦争の悲惨さを、いかに私たちの次の世代に伝えるべきか。
「核なき世界」を本気で目指すなら、世界の人々に伝わるように、
アメリカやアジアの人々に伝わるように、せめて対話の回路を
閉ざすことのないような、開かれた言葉が必要である。

本書はおそらく、アメリカで私と同じような経験を持ったのだろう
著者が、次世代に、あるいは世界に、核兵器の恐ろしさを伝える言葉を
いかに紡いでいくべきかという問題に真摯に取り組んだ力作である。
原爆に対する一つの見方 ★☆☆☆☆
本書と同様原爆報道について取り扱った繁沢敦子氏の「原爆と検閲」と
比較しながら読み進めると興味深い本である。
 
原子爆弾が投下される前の軍都としての廣島、長崎から筆を起こし、
昨今新聞を賑わせた核密約に至るまで、日本に投下された原子爆弾に
ついて詳細に分析されている。[日本の戦争被害者意識を正当化する
「唯一つの被爆国/被爆国民」という「集合的記憶」を構築し、自らの
戦争責任や戦争犯罪に対して免罪符を与えようとしてきた日本政府や
マスメディアが被爆地をどのように表象してきたのかを詳細に分析
する]と著者は述べている。しかしながら、何を以て日本の戦争犯罪と
するのかその対象、基準、分析が曖昧なまま、一方的に批判されている
印象が拭えない。