闇社会を舞台にしているという意味でこの映画はジャンルとしては「韓国ノワール」と言っていいのかもしれない。(実際そういう人もいる)しかし私たちがグリーンフィッシュを見て感じるのはスタイリッシュな映像のカタルシスではない。そこには何かというとサンドバックの様に殴られる兵役帰りの冴えない男マットン(ハン・ソッキュ)がいるだけだ。
その哀しみの質もまた違う。香港ノワールのそれはヒロイズムに浸ることのできるものだが、本作のそれは空しさばかりが先に立つ。グリーンフィッシュとはバブルに突っ込んでいく韓国社会の空しさが、舞台をソウルに設定したことにより、映画の中に忍び込んでしまった作品なのだ。人々は破滅的に何かを失うのではない。破壊はビル再開発のように徐々に忍び寄り、人々から体温を奪うように何かを奪ってゆく。その言い知れぬ不安が、この映画の後味にカタルシスを許さない。
マットンは人を殺しても泣かない。しかし受話器を握り締めながら、戻れない過去、緑の魚を追いかけた過去を兄と話す時に号泣するのだ。その空しさを埋めるために、マットンは家族の再生を願った。しかし皮肉にもマットンが消えてなくなることではじめて、残りの家族は柳の大木のもとに食堂を作り再生を果たす。
物語の最後、ぺ・テゴンとミエは偶然マットンの家族が経営する食堂で食事をする。ミエは大きな柳の形状から、そこが以前マットンにもらった写真の風景だということに気付き、号泣する。その涙はあらゆる物事が変わってしまった哀しさと、そして変わらないものへの愛おしさの混沌とした涙なのだ。
ラストシーン、引いていくカメラは家族の食堂のバックに巨大なマンション群を浮かび上がらせる。再開発はこの店をも飲み込もうとしている。その店はまた、瓦解しつつある韓国の儒教的な価値観の象徴なのだ。癒しはつかの間のものに過ぎないのだろう。しかしこのラストがなおかつ胸を打つのは、つかの間であろうともそれは紛れもない癒しであるからなのだ。