路地とはなんだろうか?
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本書では江戸時代から現在の東京に至るまでの路地に焦点をあて、時代ごとにどのような路地が生まれ、変化してきたのかについて書かれている。ヨーロッパの石や煉瓦でつくられた路地の空間は、本来建築の集合体で構成され、幾世紀もの間に人々が使いこなし、成熟させてきたものである。それに対し東京の都市空間は、幾度もの災害を繰り返し経たため、建築が歴史的な街並みを継承しているものが多くはない。幸いにも災害を逃れ、地域コミュニティーがしっかり維持されている土地には人々が使いこなした路地があり、温もりのある生活空間が存在する。そして、この温もりある路地は、空間と人が呼応し、その間の時間が育てあげたものなのだ。そんな中、興味深いのは神楽坂一帯である。ここ一帯は東京大空襲によって、古い街並みや戦前の建物はほとんど残されていない。しかし、伝統的な街並みは受け継がれ、どこか江戸の情緒を感じとれるのだという。それは、歴史の浅い路地空間であるが、空間の存続だけではなく、人のかかわりのなかで路地の魅力を守り育てようと、そこに住む人々が生活する温もりを表現してきたからではないだろうか。西欧の古い都市のような建物だけでは、まちの魅力は語れないのかもしれない。
東京が近代化する過程で、特に高度成長期以降の建築によって、使いこなされた空間が次々と失われていき、全く別の都市空間に変貌させようとする流れにあった。このような新しい空間作りはどこの街も同質化させてしまうのである。基本的に同じ仕組みを持つ路地構造でも、人々が生活する時間のプロセスを経てこそ、場所ごとの空間の個性が生まれるのである。ただ単に狭くて、形が整えば、路地ができるものではなく、そこに住む人々が育てていける空間でなければならないのだ。東京は間断なく変化し続けるが、これからの路地は歴史を支え、いかに「新しさ」と「古さ」を共存させながらその街らしさを演出するのかが大切なのではないだろうか。昔ながらの路地の程よい空間の狭さは人々の身体感覚によって形成されたものであり、そんな路地から人は安堵感を得ていた。しかし今日では、近代化に従い、広くまっすぐな道、高層ビルなどによって私たちは路地の大切さを見落としてきたのではないだろうか。路地とは、人々の生活の一部であり、常に時代の変化によってその形を変えてきた。そんな人々を支えてきた路地が減ってしまうのは寂しく思う。本書は、そんな路地の大切さに気付かせてくれる一冊だ。
”路地”から見えてくる街と人の関係
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「言いたい事は路地が必要か否かということではない。言いたい事は人の事を思いながら作られた場所、つまり、身体感覚を持つ空間を必要とせずに、私たちは生きていくことができるのかということである。」
本書は江戸東京の路地に焦点を当てて“路地”の定義とは何であろうか?ということから始まり、時代ごとにどのような路地が生まれ、どのように街は変わっていったのかということを、現代の東京に残っている様々な場所の路地を引き合いに出しながら、分かりやすく丁寧に解説してくれる。
本書を読みながら、最初の方は、「なるほど、路地というものを通して、このような視点で街を見ることもできるのか」と発見と感心の連続で“路地”というのは街の中で非常に大切な要素であると感じ、著者もそのような事を伝えたいのだろうと考えていた。
だが、本書を読み終えた時に、著者が本当に伝えたい事はもっともっと根本的な事であると分かった。
それが、冒頭で書いた一文である。この文は本書の結論の最後の一文を引用して、少し手を加えて、私が感じたこの本が本当に伝えたいであろうことを書いたものである。
「道路」と「路地」の最大の違いは、何を思いながら作られた道であるかということである。前者は車で、後者は人である。
確かに道路も多少は人の事を考えて、作られているが決してメインには考えていない。
車のことを思いながら作れば、当然車に一番やさしい道となる。車が通りやすいように、広い通りにし、進むのが簡単なように直線にし、早く目的地に着けるように、距離を短くするために、街の真ん中に道を通す。
そして、“車”という物をメインに考えて作られた空間が、身体感覚を持つ空間、つまり我々人間に適した空間とはなり得ないのは至極当然のことである。
また、生物である我々人間に適さない空間は、当然他の生物に対しても適さない空間なのである。
私たちは“効率性”という言葉に惑わされて、知らず知らずのうちに、「路地」という私たちの事を思いながら作られた空間を失くしていき、代わりに車のような物質の事を思いながら物質のための空間を作り上げてきた。
私たち人間が住む街であるのに、私たちの事を思って作られた空間がなくて私たちは生きていくことができるのか?ということを、考える必要性に気づかせてくれる名著であると思われる。
“身体感覚”という視点から路地を感じる
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路地とは何だろう。
“狭い道”とでも説明すればよいのだろうか。
確かに、路地は、狭い道と定義されることが多い。しかし、路地は、“狭い道”と一言で片付けてしまうこのできない、重要な役割を人々の生活空間において、担っていたのだ。
路地は今、注目を浴びている。雑誌では路地特集が組まれ、路地に関する書籍も最近増えてきている。そんな中、本書はただ単に路地を解説、分析するだけでなく、路地が持つ独特な場の雰囲気を“身体感覚”で感じさせてくれるのが特徴だ。
最近は、街を歩いていると、カメラ片手に路地を散策する人をよく目にする。路地に興味を示す人が増えてきているようだ。なぜ今、路地は注目されているのだろうか。
東京の都市空間は、度重なる災害によって、歴史的な建築が失われ、さらに近代化する過程において、全く別の新しい空間に変貌させようという傾向にあった。いわゆる、“都市計画”という名のもとに、それぞれの街の個性は消えてしまい、どの街も同質化してしまった。皮肉なことに、都市の近代化が進めば進むほど、人々は、路地に魅力を感じるようになったのである。
路地には、体に直接訴えてくる空間のリズムと、街に住む人たちの気配を体感できる面白さがある。車が行きかう通りでは味わうことのできない感覚があり、狭すぎも、広すぎもしない、まるで身体感覚から生まれたような絶妙な幅がある、と筆者は言う。身体にぴったりと寄り添ってくる感覚は、一度路地を訪れると癖になってしまう。それもそのはずだ。路地は、そこに住む人が生活していく過程において、身体感覚でつくられた道である。人びとの生活空間から路地は生まれた。机の上で考えられた都市計画とはまるで違うのだ。だから、人びとは、理屈抜きで、路地を訪れるとホッとし、路地に吸い寄せられるのではないだろうか。
こうして、路地は、いつの時代も、人間の生活空間に密接に関わってきており、街になくてはならない重要な存在であるのに、都市計画によって、姿を失いつつあった。しかし、最近では都市空間においての路地の重要性が理解され出し、路地空間を守ろうとする試みが行われるようになってきているようだ。
路地は、単なる“狭い道”ではない。懐かしい風情を感じさせるだけでもない。“身体感覚”を持つ空間である。このように、路地は、都市空間において、重要な役割を果たしていることを本書は教えてくれる。
次、路地を訪れる際は、この本を片手に、“身体感覚”という視点から路地空間を感じてみたくなった。本書は、私たちの生活に密接に関わっている路地を、改めて考える場をつくってくれた大変貴重な一冊となった。 H・F
「街」とは何かを考えさせられた
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読んで驚いた。迷路のような街なかを散歩するのが好きな私にとって,『江戸東京の路地』に紹介されている佃や本郷,谷中,銀座,麻布など20カ所以上の街は,本書を持って改めて訪れてみたいところと思った。つまり面白いガイドブックだったが,それだけではなかった。
この書は,日本の都市とそこでの生活の「構造」を分析していた。「賑わう路地には,人が引けた後の空虚さがない。路地を訪れる人が,一人でも大勢でも,場の設え(しつらえ)そのものに賑わいの予感を感じる。私以外,だれもいなくても充分に場の雰囲気を味わえる」と最初の方に記している。これが『身体感覚で探る場の魅力』というサブタイトルを意味しているのだろう。そして最後に,そのような人の温もりのある場を作るには,「空間の設計」だけでなく,人々が生活し気持ちが空間に描かれていく「時間の設計」が不可欠と述べている。
「ああ,そうなのか」と思った。私の近所の街あるいは商店街には,親しみのわくところもあるが,壊れかかっていると思われるところもある。その理由がわかった気がした。また,気づきにくく壊れやすいが,実は失ってはならないものがあるのは,街づくりに限った話ではない。そんなわかりにくい話を路地という身近な題材をもとに明確に説明してくれたのが本書だと思う。