純粋経験と実在
★★★★★
『善の研究』。私は以前よりこの日本で初めての(そして唯一の?)哲学書に取り組みたいと思っていました。しかし他方で、「西田哲学は難解だ」「西田の文章は悪文の典型」というような評もどこかで聞いており、また講談社版の本書は500ページをこえていることもあって、なかなか手を出せずにいました。
そんな中、少し暇ができたので、じっくりと取り組むつもりで買ってみたのですが、想像以上に読みやすいです。この書は、西田幾多郎の著作の中では読みやすい方であり、論理関係が比較的つかみやすい上、難しいとされている第一編の「純粋経験」には、小坂国継氏の明快かつ詳細な注釈が施されています。この第一編を丁寧に読み込み西田哲学の軸をしっかりつかむことで、後の章で示される彼の倫理観や宗教観をその連関に基づきスムーズに理解することができると思います。
内容については、小坂氏も、ジェームズの経験概念とヘーゲルの具体的普遍の観念を禅仏教の立場から総合統一しようとする試みであると指摘しているとおり、これら二者からの引用が多く見られます。特に私は、主客未分の純粋経験を出発点として、意識現象から宇宙の根本的な統一力にまで至るというプロセスは、ヘーゲル『精神現象学』における、「いま、ここ」の意識が絶対知にまで至る過程を彷彿としました。他方で、彼の見性体験に基づく知と行の一致と王陽明との比較は補論の中で行われていますが、これは井筒俊彦氏が東洋的な思考パターンとして類型化しているものです。そういえば、井筒氏もとあるアンケートの「私の三冊」のような企画の中で、本書をあげていました。本書では、西洋的な思考の土俵にのりつつも、古来から東洋が問題にしてきた主客未分、意識や言葉以前の状態を言葉で説明するという困難に著者が苦労しつつも真剣に取り組んでいる痕跡がうかがえます。その上、それがある程度成功し、初の邦人の手による哲学書としては意外なほどの体系性を備えているのだから、唸らずにはいられません。
本書は、抽象的な思考に縁のない人や、ほとんどこの手の本を読まない人には少し厳しいかもしれませんが、ある程度の関心と根気があれば、多くの人が十分に通読できるものだと思います。ちなみに、最初西田自身は、この著作にレビューのタイトルにある名前を名付けたそうです。
思索の帰結
★★★★☆
日本人が著した初めての哲学書と言われる本です。ドイツ的な観念論(カント、フィヒテなど)が下敷きにあるのだろうと思われますが、しっかりそれを越えた発想のもとに成立しています。それがすなわち「純粋経験」でした。
たとえば赤という色や、机という物体の「実在」を我々は知ることはできません。ただ眼という器官を通じて、また皮膚に触覚を得ることを通じて、その実在を間接的に知るのみです。世界はそうした「表象」であり、そのイデア的「本質」は、主観と客観の、そして物質と精神の、まさに統一されたところにある。そこから出発するのが西田哲学です。それは確かに人間の「認識」のあらゆる形式を言い表したものであって、その意味では真理を捉えたものに違いありません。神の超越的な目から観ればともかく、人間の目を通せばそうでしょう。
唯物と唯心のどちらでもなく、その認識の主体に焦点を当てた彼の哲学は、どうやら必然的な流れで「信仰の優位」を導いたようです。彼自身の信仰の内容には、個人的には大して興味がありませんが、彼もまた思索を通じてその帰結を得なければならなかったというのは、まったく共感してやまないところです。「知恵の実」を食った者の子孫は、その罪をこうして贖わなければならないのですね。
削りに削った文体で、全体的にやや即物的な比喩に乏しい文章かも知れません。しかし彼の最初期にあったものらしいから、まあ仕方がないかなという気もします。決して悪い本ではないです。
善とは何か
★★★★★
善とは何か。善の基準は何か。これは心ある人にとっては人生
でもっとも肝心肝要な問いだと思う。
私はその問いに対して納得のいく答えを得るために『善の研究』
を毎日、一章ずつ読んでいる。小坂国継の全注釈とV.H.VIGLIELMOの
英訳も参考にしているが、まだ十分な理解にはほど遠い。
たとえば、「人を殺してなぜ悪いか」という問題を考えてみよ
う。『善の研究』にはその答はないが、それについて考えるヒン
トはある。
旧約聖書の十戒の「汝殺すなかれ」、大乗仏教の十重禁戒の不
殺生戒、刑法第百九十九条【 殺人 】 「人を殺した者は、死刑又
は無期若しくは三年以上の懲役に処する」という規定などは、西
田幾多郎がいう他律的倫理学説(権力説→道徳の法則は他律的に
与えられる)の戒めである。
一方、自律的倫理学説には、善の判定基準を理性におく合理説
主知説)、快不快におく快楽説、内面的要求即ち理想の実現=
自己実現)におく活動説がある。また、その他に、人間には本来
的に良心がそなわっているという直覚説もあるが、これはいわゆ
る性善説に通じる考えといえよう。
自律的倫理学説と他律的倫理学説のどちらが正しいかはわから
ない。性善説か性悪説かもわからない。わからないながらも考え
るヒントが『善の研究』にはころがっている。答えを出すのは西
田幾多郎のいう知的直観によって知情意の根底を統一する人格的
な力によるものだろうか。自己と他者の知情意を統一し、絶対矛
盾を解消する宇宙的統一力は存在するのだろうか。また、西田幾
多郎の主張の通り、学問道徳の本(もと)には宗教がなければな
らないのだろうか。唯物論は間違いなのだろうか。
難解で、再読、三読、百読を要し、しかも、結論は自分で考え
なければならないが、本書は哲学の入門書としてすぐれている思
う。
初めて哲学書を読む方にはお薦めしません。
★☆☆☆☆
純粋経験については最初の方で、「毫も思慮分別を加えない真に経験其の儘の状態をいうのである。」とありますので、多くの読者は感覚における直接体験のごとく受け取ると思います。
その後も純粋経験についての説明は本文中に繰り返し出てきます。それぞれの説明のいずれにも出てくるのが「意識の統一」と言う言葉で、どうやら「統一された意識下の精神現象」を指して「純粋経験」と呼んでいるらしいことが明らかになってきます。
この「統一」というキーワードを日常使う「精神統一」のような感じで使用しているのでありますが、私にはとっては自明ではなくて、もう少し「統一されていない意識」についての説明をもっと厳密にして欲しい所です。
「意識の統一」と言う点で最も疑念を感じたのは、第二編第二章「意識現象が唯一の実在である」の次の箇所です。
≪≪ 然るにこの統一作用すなわち統覚というのは、類似せる観念感情が中枢となって意識を統一するというまでであって、この意識統一の範囲なる者が、純粋経験の立場より見て、彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するの故を以って一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。 ≫≫
つまり意識の統一は、時間と個人の枠を超えて可能と言うようなことを述べております。とにかく言葉の使い方が厳密でなくかなり強引な方だな、というのが私の西田氏に対する印象です。
西田哲学の問題点
★★☆☆☆
端的に私が『善の研究』の西田に感じる問題点を列挙する。
1.宇宙をこの宇宙に限っていること
2.実在概念に物理学が相対化しきれていないこと
3.動物と人間との関係を軽視していること
4.人格の不完全性が解明されていないこと
5.対となるべき悪の研究が為されていないこと
6.意識に直接作用する存在は何であるかが言明されていないこと
7.歴史的宗教への言及が不十分であること
量子力学もハッブルの法則も西田の生きた前世紀前半には既に既定の事実として理論化されていたから、宇宙をこの銀河系、太陽系、地球の属するこの宇宙に限っていることは、他方で物理的実在に言及する以上、ちょっと理解が浅すぎるのではないか、と思われる。
全編に貫かれる意識主義によって、西田哲学の主眼は人間の意識主義に限定され、ともすれば動物蔑視の文言が散見されもし、人間が動物から進化したものである歴史を踏まえていない上で、また、現世を動植物と共有している世界を飛び越して、即宇宙と人間が繋がるという論理にもどこかに飛躍した欠陥があるだろう。
それもこれも、出版社の要請に応じた講義録の寄せ集めによって成った本書の性格からすれば仕様がないことなのかもしれない。