いや〜 いいですね! ! !
★★★★★
この本は, ドーキンスの本の中でも大好きです.
一番は 単純に生物の遺伝子の変化の仕方だったり結果的に進化につながっていく事が, どんな風に考えられるのか
を説明していたブラインド・ウォッチメイカーが面白いかなと思うんですが,
しかしこの本は書いている考え方が痛烈で最高です!!!
良く言ってくれたっ という気持ちになりまくりますが, 同時に宗教を単純に否定しているような意見を言うのは,
とても頭が悪そうな事だと思いまして, この本を読んだ後は, 宗教については色々な嫌な記憶を持っていて否定的な
結論を出すけれど真に科学的な知識に対して, 疎い人の そういう非科学的なところが見えてきて, 自分も
この本を読む前はちょっとそうだったのかな?と思って少し背筋が寒〜.
やっぱり単純に科学を考えている場合を見てみても, 脳がどんな状態で考えているのかが一番重要なんではないかと
思います.
まさに宗教というのはそういう面が問題だという点で批判されるべきじゃないでしょうか.
科学的 を謳っていても, ひょっとしたら新興宗教レベルの思考パターンで書かれている本などは, その意味で
宗教 もしくは脳の状態を問題意識から指定された新しい考え方で扱う必要があるんじゃないですかね.
つまり問題のある脳の状態を再現する事を問題にした方が正しいと思います.
この本で書かれている宗教心というものは, おそらく私も感じていて 私はそれを素晴らしい気持ちだと思います.
しかし, 私がそれを感じるのは, 人間というものについて考えている時で, その祖先からの歴史(進化の)について
意識的に感じようとした時だけなのです.
おそらく宗教心というのは, ただ感情が集まっただけなのか, もしくはこういうもののためにあるのか, 本書で
書かれているような子供が親から学習したり親に集まってくる時のためにあるのではないかと思います.
今助けてくださらないのは「神々は今出雲に出張中だからである』と言って笑うくらいシャレっぽくならないのだろうか
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ドーキンスがむきになって,神を否定している本だ。
主に対象となるのは,ユダヤ,キリスト,イスラム、一神教の神である。
科学的な側面も含めてさまざまな観点から,神の存在を否定するが、私が腑に落ちたのは次の二つの意見である。
「知的な意味での著名な人々の圧倒的多数はキリスト教を信じていないが,大衆に対してそれを隠している。
なぜなら,彼らは自らの収入が減ることを怖れているからだ」(バートランド・ラッセル)
「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教はあってもなくても、善いことをする善人はいるし、
悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」(スティーブン・ワインバーグ)
一神教というのは、今助けてくださらないのは「神々は今出雲に出張中だからである』と言って笑うくらいシャレっぽくならないのだろうか
宗教というのはどうして不寛容なのか。なぜ,宗教だというと特別扱いされるのか,無神論者(atheist)はなぜ,欧米では生きにくいのか
差別されるのか。アメリカの宗教社会は大丈夫なのか、そんな疑問にも答えてくれるのが本書である。
イーグルトンの『宗教とは何か』と合わせ読むとさらに興趣がますやも知れません。ぼくはもう一度、
遠藤周作の『沈黙』を読んでみます。
科学者と称するドーソンさんの焦りから来る感情論に終わっているのが残念!
★☆☆☆☆
1.リチャードドーソンさんは進化論の柱である「突然変異」についての以下の事実に応えられず感情論で攻撃に出ているのが残念。かなり焦りを感じているでしょう。
【突然変異】進化論説の柱である「突然変異」、これが可能となるのは遺伝子情報の「自然増加」が可能な場合のみである。(例:小さな微生物から複雑な組織でる人間に進化するには計何mbの遺伝子情報の増加が必要となる。) しかし、「突然変異」はどれも遺伝子情報の複製失敗(減少)によるもので、「自然増加」は未だに確認されていないというのが事実である。
ドーソンさんへのAIGによる直接インタビューで上記の事実に対する進化論的見解と反論を求めたが、事実20分間考え込み、最後に取材班が退出させられた。
2.本書でドーソンさんが「善」と「悪」という線上で議論をし人々の良心に訴え<キリスト教>の神を激しく攻撃しているのですがが、無神論者や進化論者たちにとって「善」と「悪」等はそもそもどうでもいいことじゃないでしょうか? ドーソンさんは本書でキリスト教史の度重なる戦争と殺人を引き合いに出し強く批判していますが、進化論者がいつから「善」と「悪」という倫理に断って民族浄化、殺人、戦争等を「悪」として批判するようになったのでしょうか? 戦争であろうと、殺人であろうとっ進化論者にとってすべては進化の一過程に過ぎずどうでも良いことです? しかし、このような感情論に出るのはよほど焦りを感じていることでしょう。
つまり、たとえ、特定の宗教または国家が現れて地球を水素爆弾で終息を計ったとしても、進化論者にとっては、これも進化の一過程にすぎず、「善」と「悪」という線で議論されるべきものでもないはずです!ここに大きな矛盾を感じます。
こうしてドーソンさんが人々の「良心」や「倫理観」に訴えて感情論に出て「神」という存在を攻撃、否定しようとする行為自体は、本人が意識していなくても、自らの行動で「聖書」の倫理観が真理であることを証明しているのではありませんか?
6.進化論も、創造論も仮説であるとしよう。現代科学はダーウインの進化論説の可能性を100%否定しています。創造論に関しては創造者が誰かについてはもちろん特定しておりませんが、聖書の創造論に関する記述を否定できる科学的証拠は一つもありません。逆にどれもデザイナーの存在を強く裏付けています。分子生物学の研究も進むにつれ細胞の構成物質のことがよく分かるようになり、一個の細胞でさえデザイナーなしに形成されるには、想像を絶するほど多くの幸運が重ならなければならない。
一つだけ間違いないのは進化論者でも、無神論者でも他の宗教であっても、イエスキリストの次の言葉が語られた以上、その言葉に対し個人的に決断することがが迫られている。
「 もしわたしがこの世に現れなかったなら、彼らに罪はなかったでしょう。(いろいろな仮説でごまかしても罪はなかたったでしょう。)しかし、私のことばが語られ、わたしの御業が行われた以上、その罪について弁解の余地はもはやありません。私が語られたこの言葉が彼らを裁く。」イエスキリスト
If I had not come and spoken to them, they would not be guilty of sin. Now, however, they have no excuse for their sin.
人の背きの罪のために創造者がこの地球に呪いを下した。これが人類史(キリスト教史を含む)が死と滅亡の繰り返し滅びに向かっているのです。このように聖書が教えています。
創造者は創造者であるから主権者であり、創造するのも、破壊するのも創造者の勝手でしょう!