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悪と往生―親鸞を裏切る『歎異抄』 (中公新書)

価格: ¥819
カテゴリ: 新書
ブランド: 中央公論新社
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宗教学者は祈らなくていいのか ★★★★☆
 オウム真理教事件や酒鬼薔薇事件に触発され,悪という問題を根底的に考えるべく,悪をテーマとして思索した日本の稀有な宗教家として親鸞に取り組む,この問題意識に共感して読み始めたが,中盤で失望した。
 著者は親鸞が,阿弥陀如来の救いへの願いが,思えば親鸞ひとりのためのものであったことに気づいたということを,この「ひとり」を近代的個人と対置しつつ重視する。そして,阿弥陀の願いも親鸞ひとりのために,という親鸞の気づきを,欺瞞と傲慢ぎりぎりの至福の状態と,繰り返し評する。

 そうであろうか。阿弥陀如来にかぎらず,クリスチャンであればイエス・キリストが自分ひとりを救うために,みずから十字架にかかり,パン=聖体から値しない自分に「食べていいんだよ」と呼びかけてることに気づくとき,「ありがたい」「もったいない」とこうべをたれるのではないか。阿弥陀が,イエスが,値しない自分のひとりのために(だけのためではない)救いを願っていることに気づくとき心に訪れるのは,感謝と謙遜であると思う。これを欺瞞と傲慢ぎりぎりの至福ととらえては,まったく的外れであろう。

 本書の中盤で,この的外れが示され,同時に種田山頭火と尾崎放哉を同列に論じてかれらの「ひとり」という自覚を評価し,これと対置して高浜虚子と斎藤茂吉の「ひとり」という意識を近代的個人の自我意識と断ずる。前者が著者が誤解したと思われる親鸞の「ひとり」に連なるものと独断される。

 思うに著者は,学問はあっても祈りが足りないのだ。だから大切なポイントではずしたのだと思う。ここの著者の解釈を受け入れられる人は,有意義に読破できるのだろう。
批判の方法として間違い ★☆☆☆☆
「唯円が書いていることは、親鸞の言っていることと違う」という批判ならわかる。
しかしこの本は「唯円はこのことを書いていない。あのことも書いていない」と批判する。

『歎異抄』の悪人正機説の段の主旨は、悪人だって救われるんだから善人は当然救われるだろう、という常識的な考え方を批判することにある。だから親鸞が、悪人救済には「善知識」と「懺悔」などという条件が必要だ、ともし考えていたとしても、そのことをここで述べる必要はない。この段は十分完結した内容になっているのである。

こんなやり方で批判され、ユダ呼ばわりされたら、誰でも頭にくるだろう。
山折氏は、オウムの麻原のような奴は救われてたまるか、と考えている。その点は私も同感である。しかしだからといって、悪人正機説を世に広めた『歎異抄』をやり玉に挙げるそのやり方は、感心しない。

評論のための評論 ★★☆☆☆
 6月27日の朝日新聞。山折氏の「自作再訪」の欄にであった。本誌の内容を読み進む中でも感じた事だが、氏の解釈には、致命的な欠陥がある。それは、歎異抄が、仏教者の書、仏道を歩む者の書であるということに気づいていないということである。

 仏道を歩む、ということは、自分自身の問題である。自己の内面を無視した評釈が意味をもつことはありえない。阿弥陀佛と麻原彰晃の関係はどこまでもこの二者の関係なのであって、第三者が、口を挟む余地はない。被害者と言えども、である.

 唯円の言う悪人・親鸞の言う悪人とは、「麻原になりうる私」をいうのであって、他の人物を指すのではない。また、阿弥陀仏の「はたらき」によって、救われた喜びの後にしか慙愧の思いは生まれないであろう。あくまで救いが先であることは、教行信証を読めばわかるはずである。懺悔は条件ではなく、結果である。

 あたかも相撲見物の観客の如き氏の評論は、宗教学者としての氏の見識をも疑わざるを得ない。

宗教学者は祈らなくていいのか ★★★☆☆
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 そうであろうか。阿弥陀如来にかぎらず,クリスチャンであればイエス・キリストが自分ひとりã‚'æ•'うために,みずから十å­-架にかかり,ãƒ'ン=è-ä½"から値ã-ない自分に「食べていいã‚"だよ」とå'¼ã³ã‹ã'てã!„ã‚‹ã"とにæ°-づくとき,「ありがたい」「もったいない」とã"うべã‚'たれるのではないか。阿弥陀が,イエスが,値ã-ない自分のひとりのために(だã'のためではない)æ•'いã‚'願っているã"とにæ°-づくとき心に訪れるのは,感謝と謙遜であると思う。ã"れã‚'欺瞞と傲æ...¢ãŽã‚ŠãŽã‚Šã®è‡³ç¦ã¨ã¨ã‚‰ãˆã¦ã¯ï¼Œã¾ã£ãŸãçš„å¤-れであろう。

 本書の中盤で,ã"の的å¤-れが示され,同時に種ç"°å±±é ­ç«ã¨å°¾å'Žæ"¾å"‰ã‚'同åˆ-にè«-じてかれらの「ひとり」という自覚ã‚'評価ã-,ã"れと対置ã-て高浜虚子とæ-Žè-¤èŒ‚吉の「ひとり」という意識ã‚'è¿'代的個人の自æˆ'意識とæ-­ãšã‚‹ã€‚前è€...がè'-è€...が誤解ã-たと思われる親鸞の「ひとり」に連なるものと独æ-­ã•ã‚Œã‚‹ã€‚

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喜ばしい仏教研究の新たな成果 ★★★★★
「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

「親鸞は父母のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまださふらわず」

「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」

などの親鸞の言葉は、その門弟であった唯円が,親鸞の没後に、親鸞の言葉の聞き書きとして記した「歎異抄」で人口に膾炙したもので、以後、日本人の心を捉える書となった。

しかし、親鸞の真に意図した「悪人正機」と歎異抄に述べられる「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」には、ずれがあるというのが著者が本書を著した一つの理由である。

法然の門下にあった親鸞、その門下にあった唯円の関係は、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」という言葉とどのような整合性を持っているのか。

このような謎を説き起こしていく中から、著者は親鸞と唯円の関係は、キリストとユダの関係ではなかったかと結論づける。

「他力本願」の根本思想から弥陀の慈悲にすがることのみが、往生の道であるとする親鸞の思想と、その師を敬い、愛して止まないその弟子、唯円の関係は、かなわぬ恋のようなものであったのではないかという。

更には、親鸞の言う悪人正機は、その信仰体験の裏付けがあるが、唯円にはその部分の欠落があるとも指摘される。

日本の仏教研究は、独特の文化を形成しており、近くは鈴木大拙、倉田百三などの思想が、西洋哲学界にも大きな影響を及ぼしてきたが、本書の著者のように、現代においても、超一流の研究家、仏教思想家が活躍していることは、誠に嬉しいことである。