『歎異抄』の悪人正機説の段の主旨は、悪人だって救われるんだから善人は当然救われるだろう、という常識的な考え方を批判することにある。だから親鸞が、悪人救済には「善知識」と「懺悔」などという条件が必要だ、ともし考えていたとしても、そのことをここで述べる必要はない。この段は十分完結した内容になっているのである。
こんなやり方で批判され、ユダ呼ばわりされたら、誰でも頭にくるだろう。
山折氏は、オウムの麻原のような奴は救われてたまるか、と考えている。その点は私も同感である。しかしだからといって、悪人正機説を世に広めた『歎異抄』をやり玉に挙げるそのやり方は、感心しない。
仏道を歩む、ということは、自分自身の問題である。自己の内面を無視した評釈が意味をもつことはありえない。阿弥陀佛と麻原彰晃の関係はどこまでもこの二者の関係なのであって、第三者が、口を挟む余地はない。被害者と言えども、である.
唯円の言う悪人・親鸞の言う悪人とは、「麻原になりうる私」をいうのであって、他の人物を指すのではない。また、阿弥陀仏の「はたらき」によって、救われた喜びの後にしか慙愧の思いは生まれないであろう。あくまで救いが先であることは、教行信証を読めばわかるはずである。懺悔は条件ではなく、結果である。
あたかも相撲見物の観客の如き氏の評論は、宗教学者としての氏の見識をも疑わざるを得ない。
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「親鸞は父母のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまださふらわず」
「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」
などの親鸞の言葉は、その門弟であった唯円が,親鸞の没後に、親鸞の言葉の聞き書きとして記した「歎異抄」で人口に膾炙したもので、以後、日本人の心を捉える書となった。
しかし、親鸞の真に意図した「悪人正機」と歎異抄に述べられる「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」には、ずれがあるというのが著者が本書を著した一つの理由である。
法然の門下にあった親鸞、その門下にあった唯円の関係は、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」という言葉とどのような整合性を持っているのか。
このような謎を説き起こしていく中から、著者は親鸞と唯円の関係は、キリストとユダの関係ではなかったかと結論づける。
「他力本願」の根本思想から弥陀の慈悲にすがることのみが、往生の道であるとする親鸞の思想と、その師を敬い、愛して止まないその弟子、唯円の関係は、かなわぬ恋のようなものであったのではないかという。
更には、親鸞の言う悪人正機は、その信仰体験の裏付けがあるが、唯円にはその部分の欠落があるとも指摘される。
日本の仏教研究は、独特の文化を形成しており、近くは鈴木大拙、倉田百三などの思想が、西洋哲学界にも大きな影響を及ぼしてきたが、本書の著者のように、現代においても、超一流の研究家、仏教思想家が活躍していることは、誠に嬉しいことである。