探求者の陥るワナ
★★★☆☆
ほかのレビューで『アジズは自我を解決していない』と書かれていますが、私の感想も全く同じです。
アジズは『悟りに到る探求の地図』を説明しており、知性の力で秩序化しています。
これは『真我とは思考からの解放である』という基本に反しているように思えます。
この辺りは、フーマンの二冊目の本に『アジズの教えはインテリのためのものであり、あなたのマインドにアピールするに過ぎない』とハッキリ書かれています。
永遠なるものは、時間の流れの中に閉じ込められていないはずです。
『悟りとは、探求して少しずつ拓くものだ』と思っているアジズが、永遠なるものに目覚めているとは思えません。
悟りとは本来、体系的な秩序を破るはずです。時間や論理を破るはずです。
ですから、禅もニサルガダッタ・マハラジも、悟りへの明快な地図なんて語りませんでした。
ラマナ・マハルシも『万人に通用する教えはない』(つまり体系化できない)とおっしゃっています。
アジズも私たちも知的理解ではどうにもならないことを思い知り、全面的に降参しなければならないのだと思います。
とは言え、『悟りはアイデアに過ぎない』『悟りを求めれば、いつもポイントを逃す』『自分自身を探すことだ』というアジズの主張には私自身、目を開かれました。
ですから、探求の参考にはなるかと思います。ただしアジズの問題点はきっちりと押さえておくべきでしょう。
『そこに目的地と、それへの道があるという観念自体が誤りである。われわれはつねに目的地にいる。われわれはつねに平和なのだ。われわれが平和ではないという考えを取り除くことだけが必要なのである。』
〜ラマナ・マハルシ〜
悟りだの、自分自身だの、探求の地図だの、そんなもの全部吹っ飛ぶぐらいに、徹底的に忘れたい。
…こんなくだらないレビューを書いているんじゃ、どうしようもないね(笑)
追記(2010,6,13)
上記の記載当時はこっぴどく批判してましたが(笑)、探究者の役に立つならOK!だと今では思います。
人それぞれの道のりがありますからね!
要は、探求する段階と、探求を手放す段階があって、アジズは探究する段階の方にアピールするのでしょう。
フーマンは、そのことをよく理解していたからこそ、アジズと組んでいたんだと思います。
ただ、フーマンは最初から段階をすっ飛ばして、いきなりノーマインドを体験させる人だったようです。
その「段階なき究極」から見れば、アジズの地図は必要ないわけです。
最終的には、あらゆる探求とあらゆる地図を手放す必要があります。
そうでないと、永遠に探求するハメになります。
それをよく理解しているなら、何も問題はないでしょう。
Sat (真実) Chit (意識) Ananda (至福)
★★★★★
精神世界本を読み始めた頃から、悟りの説明には2種類のものがある気がしていた
一つは禅的というか、クリシュナムルティ的というか
悟りは「無」である、とか「自由」であるとか、そういう説法です
もう1つは、神は「無限の愛」であるとか、私たちの魂の源泉だ、とかそういう説明です
ダスカロスとかパラマハンサ・ヨガナンダとかはこっちのタイプだと思います
この2つは同じものの別の側面らしいが、それでもどこか腑に落ちない気がしてました
そこでアジズに出会いました
アジズの教えは(多分、方便として)3つの悟りがあることを説いてます
純粋意識の悟り、絶対状態の悟り、ハートの悟りです。
(インドではSat Chit,Anandaというそうですが)
この分類の仕方や説明が、現代人の私にとって非常に納得のいくもので、長年の疑問が解消した気がしました
この本では、1つ目の悟り「純粋意識の悟り」についての瞑想法について、わかりやすく紹介してます
アジズ入門本としてオススメ
筆者のバイアスによって、信頼しうる教え?
★★☆☆☆
アジズは、自我について語らず、その問題を解決していないように見える。それは、その学びを受けた著者が悟りやState of Presence にやっきになって執着していることからしても察せられる。
その点からすると、例えば、クリシュナムルティの高みには達していない「教え」なのかもしれない。もちろん、どんなスピリチュアルな教えにも学ぶべきものはあるが。
また、著者がアジズを「ノーベル精神世界賞」と呼ぶ陳腐な表現によって、著者の求道精神のレベルが推し量れてしまう。
まだ、名声や見栄にこだわっているのか。
世俗のすべてを失っても、なお、真理を追究しようとする切実なる精神の持ち主には、この本は物足りないどころか、それ以下のもの。残念だが。
安全で確実な「自己知識の道」をすすめる本
★★★★★
『(あなたが何故悟れないか。)それはとてもシンプルだ
あなたは自分自身を探していないからだ。あなたは悟りを求めている。悟りとは単なるアイデアだ』
『マインドは通常、たんなる思考の動きであって、いろいろな印象を受け取りいろいろな方向に動き続ける。
マインドは物事を見たり識別したり分析したりという機能だ。
目覚めの中で初めてマインドにはセンター(中心)があることを発見する。
マインドの中に私(Me)がある。それぞれの思考、感情の背景に私(Me)がある
我々はこの私(Me)というものが認識されなくなって、思考に同一化してしまっている』
『あなたの目の後ろにある人は誰か?それを感じるためには、注意を後ろ側にもっていかねばならない。
あたかも後ろを見るかのごとく。あなたの頭蓋骨の後ろを見ていると想像してごらん。
どの様に観ている人を観るか。 それがポイントだ。
あなたはたくさんの物を観る。でも観る人を観る事が出来るかな?』
『息をすって呼吸を止めてごらん。そうしてあたまの内側に存在してごらん。
誰かがそこに存在している。この誰か、が私(Me)だ。それが気づきのセンターだ。意識のセンターだ。
その意識のセンターが観ているのだが、通常はそのセンターがセンターそれ自身に気づいていない。
あなたの頭をカメラにたとえよう。あなたというカメラは周囲のすべてを写す。
しかしカメラのセンター自身は観ていない。
カメラのセンターを認識してカメラのセンターそのものになる事が根本的な事だ。
それがマインドからの解放をもたらす。(略)
あなたが私(Me)として内側に存在すればマインドはストップする。
これを私は、ステート・オブ・プレゼンス(State of Presence)と呼ぶ。
注意(Atention)が注意自身に気づいている状態、観照意識、気づきそのもの、対象物のない気づきという事だ』
『次のステップはそれを絶えずキープすること。決してそれを失わない様にする事だ
そうすれば、この私(Me)があなたを変容に導く。そうすれば、あなたはその結果を知るだろう』
アジズによれば、最初の悟りは、この「対象物のない気づき」と大きくかかわっている。
この本は入門編ということで、この「気づきへの集中」という方法までしか語られていませんが
その後、この気づきすらも手放していくことになります。
マインドに一点の中心を作り、それを手放すことで、認識のできない"今"に至るという方法です
(それらについては「ヒューマン・ブッダ」やフーマン・エマミ氏の本で語られています)
また、アジズの教えは、一見では禅のような男性的な修行法に見えるのですが
女性的に"ハート"を開いていく重要性や、それにより起こる"魂の認識"についても語られています
仏教的な"空"の次元と、キリスト教的な"聖なる愛"の次元について、同時に語ってくれている希少な本です
自分の呼吸や動作、周りの環境など、そういった間接的なものに注意を払うよりも
「私」という直接的なものに注意を払うことで、成長は飛躍的に進む
安全だが確実な「自己知識の道」をすすめる本です。
衝撃を受けました
★★★★★
この本を読んで瞑想を始めた。瞑想が深化するとともに、本の味わいも増した。
もう、10回も読んだ。たくさんの友人に勧めた。
この本を読んでハマる人が1人でもいればいいと思って、このレビューを書いている。