特捜番記者魚住昭の「悔悟」
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岩波新書「特捜検察」では、政治腐敗を剔抉する地検特捜部の活躍にエールを送った魚住昭。
本書ではそうしたトーンは微塵も見られない。
厚労省村木元局長の主任弁護人である弘中弁護士に魚住は問う―
「いまの特捜部の質が東京も大阪も極度に低いことに疑う余地はない。では、以前の特捜部、つまり私が
『特捜の正義』を信じていたころの特捜部はどうだったのか。その内実はいまと変わらなかったが、私の見る目が
曇っていたために『最強の捜査機関』と思い込んでいたのにすぎないのか。」
対して弘中弁護士は答える―
「あえて言うとするなら、以前は悪質・巧妙だった捜査が、悪質・ズサンなものになったということでしょうね」(本書281頁)
大阪特捜の見込み捜査、事件のストーリー優先の捜査方針、立証方針の「ズサンさ」は本書で余すところなく記述される。
そして検察独自捜査の事情に疎い読者のために、刑事訴訟法における検察の機能を簡単に解説。
その機能―悪質な機能は以下のようになろう。
検察庁法で認められる独自捜査権限はそれ自体、チェック機能が存在しないこと。
「人質司法」と呼ばれる身柄拘束原理主義は保釈されない恐怖から調書にサインするインセンティブを生むこと。
そして、参考人や共犯者の供述調書の証拠価値を認める刑事訴訟法の条文。
このような制度上の武器を縦横に駆使して「悪質」な捜査を展開してきたものが、
なぜ、「ズサン」になったのか。
検察に辛い大阪の裁判所に対峙する大阪の検察は、かつて、ガチガチの立証をしてきたのではなかったのか?
(田中森一氏の著作など)。それが初歩的と思われるような裏付け捜査すら行わなず、判例を無視する行為(取調べメモの廃棄)
まであえて及んでしまう組織になってしまったのか?
このような点により深く切り込んでいればさらに有益な本になっただろう。
とはいえ。
新聞、テレビの論調は各検察官の資質の劣化という属人的なものに還元して事件を解説しようとする。
だが、法制度上の病理まで切り込まずに村木事件を語ることはもはやできない。
その意味で本書を参照する意味は大きい。
「予想どおりの無罪判決」という「異例」をもたらした制度疲労
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2010年09月10日大阪地方裁判所は虚偽有印公文書作成・同行使について厚生労働省元雇用均等・児童家庭局長の村木厚子被告に、予想されたとおりの無罪判決を下した。有罪率99%を超える日本の刑事裁判では無罪判決自体が異例だが、それが「予想されていた」ことはさらに異例であった。
本書は、その「異例な」裁判の経過を丁寧に追っている。なぜ、無罪判決となったのか、実によく分かる。
そして本書を読むと、「検察特捜部」というシステムの「制度疲労」がひしひしと分かる。そもそも、検察は公訴機関であり捜査機関ではない。警察が行った捜査をチェックしその質を保つというのが検察の重要な機能なのだ。その「捜査のチェック機関」が自ら捜査を行ったとしたら、その捜査をチェックする機関はどこにもない。筆者が言うとおり「審判がプレイヤーを兼ねるようなもの」である。特捜部捜査が質的劣化をきたすのは当然と言わなければならない。
本書ではかつて社会部記者であった筆者の実体験にも触れられていて興味深い。検察と記者との間に「政治の腐敗をただすという共通の目的に向かう、ほぼ完璧な一体感であり、信頼感」(本書65頁)が存在したという証言は貴重である。
しかし時代の変化により、明らかに特捜部システムは時代遅れとなった。「政治をただす」のではなく冤罪を引き起こしてしまった。日本の刑事司法のシステムは、抜本的に見直されるべき時期に来ていると思われる。