行為としての死
★★★★☆
「下克上」という言葉もあるように、家臣が君主を裏切ることさえ珍しくなかった戦国時代。
自らの能力を高く買ってくれる主君を求めて国から国へと渡り歩くことは、当時の武士にとってごく普通の習俗でした。
ですがそのような実力主義の風潮は、泰平の世には相容れない価値観となってしまいます。
武士たちの活躍の場である合戦ははるか昔の出来事となり、体制の安定と維持が唯一の目的となる治世の時代。
250年の長きにわたる、徳川幕府の時代です。
それは同時に、武士が自らの「死に場所」を失った時代でもありました。
官僚的な事務能力ばかりが重宝され、戦国の気風を伝える荒々しい価値観が窒息していく世界。
しかしそんな世にあっても、自らの存在を誇示できる瞬間がかろうじて訪れるのです。それは何か。
主君の死に際して、自らもそれに追従し腹を切ること。つまり「殉死」です。
本来、「殉死」は主君と特別な心理的紐帯のあった者、例えば主君と衆道(男色)の関係にあった小姓などが行ったものでした。もともとは一種の恋愛感情に基づく行為だったのです。
ですが近世になると、そこに「亡き主君の恩に応えて追腹を切ることで、武士としての名誉を誇る」という、「行為としての死」という側面が加わってきます。
武士として活躍する場所、「死に場所」がない世界です。戦国の世からすれば取るに足らないようなこのちっぽけな名誉のために、近世初期には殉死が全国的な流行となりました。特に、ヒエラルキーの最下層に位置する下級武士がこぞって主君の後を追って死んだのです。
ところが、殉死という行為は「主君を思う忠義の行為」でありながらも、同時に「武士の自己顕示的な精神性の発露」でもあることになります。
云ってみればそれは、常に死と隣り合わせで生きる「戦士」が本来的に備えている、「アウトロー」つまり「かぶきもの」としての価値観を色濃く反映した行為なのです。
いつ死ぬか分からないからこそ、簡単に死んでしまうからこそ、死にざまにこだわる。生き恥をさらさぬよう、不名誉な評判を遺さぬよう、見事に死にきる。それゆえ「殉死」は「主君」や「お家」のためというよりはむしろ、あくまでも自分個人の名声を鑑みた武士の美学でもあったのです。
それゆえ、時の権力は「殉死」を問題視し、ついには禁止するに至りました。それが「主君の死という契機を利用して自己の武勇を誇る」という危険思想にさえなりうることを、炯眼な権力者は見抜いたのです。
明治以降の軍国主義イデオロギーが顕彰する「忠孝」を尊ぶ「武士道」とはひと味もふた味も違う、「むき出しの武士道」がここにあります。
興味ある方はぜひ。
殉死は忠誠心の発露ではなかった?〜日本人のメンタリティの伏流
★★★★★
殉死というテーマから日本人の心性(メンタリティ)の伏流をくみ上げていく名著です。
著者に導かれるままに史料をひもといていくと、殉死が意外にも我々が忠臣蔵などから想像するような、忠誠心の発露からおこなわれたのではなかったことがわかってきます。
著者はそれが戦国時代の「かぶきもの」的心性を残した武士たちが、主君のわずかな恩に「男気」を感じて、一種の美学としておこなったものだということを明らかにしていきます。
しかし、私には、殉死が「かぶきもの」によってなされたという事実もそうなのですが、むしろ、史料から「かぶきもの」が確かに実在したことが生々しく伝わってくることのほうが衝撃でした。
「かぶきもの」的心性とは、わかりやすく言えばマンガ『シグルイ』や藤沢周平『武士の一分』で描かれたような、武士としての対面のために自分や他人の命を何とも思わないような生き方です。
例えば、ある時旗本の若松又七郎というものが伊達政宗の屋敷を訪問して、さんざんからかわれたことを恨んでか、突然走りより扇で正宗の頬をしたたかに打ったということがありました。この時正宗は少しも動じず、逆に「曲者かな(褒め言葉)」と言って褒めたそうです。一方正宗が打たれるのを止められなかった小姓には切腹を命じたということです。
この場合、又七郎も正宗も「かぶきもの」なのです。著者は『葉隠』が伝えるこのエピソードをおそらく史実だろうと述べています。
一方、近代に至っても太平洋戦争中の特攻隊や沖縄戦での自決などに見られるように、日本人には未だに自分の命を軽視する心性が伏流して宿っているのかもしれない、と思いました。が、歴史学という制約から、近現代の事例まで広げての考察はなかったのはやむをえないところでしょうか。近現代の事例については中公新書の『軍神』の一読をお奨めします。