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責任という虚構

価格: ¥3,675
カテゴリ: 単行本
ブランド: 東京大学出版会
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社会の虚構性についての透徹した探究 ★★★★★
「自由に行為する主体」というのは、近代社会において、個人を把捉する、前提となってきた。われわれは、自由に選択し、行為することができる。刑事事件において、被疑者が「自由に選択し行為した」のでなければ、刑事責任を問うことはできない。社会心理学などのアカデミックな分野に疎ければ、これは、ほとんどの人の「常識」だろうと思う。しかし、社会心理学や脳科学の実験は、実証的な見地から、この「自由に行為する主体」という概念じたいに疑問を呈している。

われわれは、ほんとうに、「自由に行為する主体」なのか。ナチスは、当時世界で最も先進的な民主的憲法の下、民主的な手続きによって政権の座についた。そして、「普通の人々」が、ユダヤ人の殲滅計画に手を貸した。われわれが、当時、その場所に居合わせたら、同じ行為をなさなかったと言い切れるか。(1人の人間が、ユダヤ人の殲滅計画を目論んで命令を下しただけでは、絶対に、何百万人ものユダヤ人は死なない)

責任とは、ある行為から事後的に生み出された「動機」という虚構にもとづくのではないのか。とはいっても、「自由」や「責任」という概念なしには、われわれの社会は立ち行かない。われわれの社会は、貨幣をはじめ、「虚構」なしでは存立しえない。自由や責任といった概念もそのひとつだ。われわれは、「自由に行為しているという感覚」を「自由」と捉え、因果関係のフィルターを通して、事象の「責任」を誰かに求める。

著者は、ただ、深く問う。深く問うことによって、われわれの「常識」を解体し、洗い出していく。著者が世界の定立の根拠について問うとき、彼は、カントの自然因果律の議論も、ラプラス的な決定論も斥ける。彼は、社会の成員の相互作用が、彼ら彼女らの〈外部〉として自律運動を始めることに、この問いの解への第三の可能性を見出している。

人間について、人間社会について、新しい視座を提供する、名著中の名著だ。日・仏・英語からの、圧倒的な引用文献の多さについて、著者は、「出典の多さはまさしく私の独創性欠如を曝けだしているが…」と謙遜するが、その博学に加えて、学問への謙虚で誠実な姿勢には胸を打たれずにはいられない。

[序章]主体という物語
[第1章]ホロコースト再考
[第2章]死刑と責任転嫁
[第3章]冤罪の必然性
[第4章]責任という虚構
[第5章]責任の正体
[第6章]社会秩序と〈外部〉

著者略歴
1956年 愛知県生まれ
1994年 フランス国立社会科学高等研究院修了
現在 パリ第八大学心理学部准教授
罰と罪 ★★★★★
 大変な力作である。
 事件や事故が発生すると、われわれは特定の個人に責任を押し付けようとする。しかし「責任」とは何だろうか。
 責任を正当化するためには、行為者の自由が保証されていなければならない。その「自由」がいかに不確かな概念であるかを、さまざまな心理実験を参照しながら小坂井はまず論証する。しかしそのことは必ずしも決定論を導かない。「自由とは因果律に縛られない状態ではなく、自分の望む通りに行動できるという『感覚』である」と小坂井は言う。
 では犯罪とは何か。「犯罪とは行為の内在的性質によって規定されるのではない。社会規範に違反することが犯罪の定義だ」と小坂井は答える。絶対的な善悪に従ってルールが定められるのではなく、定められたルールに違反することがすなわち悪なのだという論理は、永井均の道徳哲学とも親和性が高い。
 ルールは虚構である。しかしルールが虚構であることと、その虚構によって社会が成立することとのあいだに矛盾はない。貨幣というフィクションによって市場経済が成立しているのと同じように。小坂井はそう解説する。
 罪よりも先に罰がある。然り、罰したいという欲望がある。しかしそれこそが原罪であるという考え方は成り立たないだろうか。殺人が罪であることは、ルールの制定以前の必然ではないだろうか。言語と相即的に発生し成立する「同情」に、ルールの根拠を求めることはできないだろうか――等々、数々のインスピレーションがわき起こり、ページをめくる手が止まることもしばしばであった。
 著者はフランスに在住し、フランス語での著作も多数あるという。確かに緻密さと息の長さは日本人離れしているが、美しい日本語は論旨も叙述も実にクリアである。ゾレンを含まない客観的な叙述は類書にありがちな啓蒙主義とは無縁であり、圧倒的な論域の広さも含め文句なしの名著である。
常識と思っていたことを論理的に覆されました ★★★★★
責任とは何か。
タイトルになっているように、責任には確たる根拠が無いことを、実験と論理の展開に基づいて証明しています。
筆者はさらに、なぜこのような虚構があたかも根拠のあるものであるかのように私たちの感覚の中に組み込まれているかを説明します。宗教、道徳も、同じ虚構の構図です。
まず、序章で「ミルグラムの実験」を考察し、私たちが「行動の前には主体的な意識がある」と考えている常識に疑問を投げかけるところから始まります。
第2次世界大戦中のホロコースト。死刑制度を支える分業体制。洋の東西を問わず発生する冤罪事件。これらには実は、行動と主体的な意識がかけ離れるようになる同じ構図があると指摘します。

根拠が無いところに、意味の発生する不思議。

本書は一貫して、ホロコーストやその他取り上げた事象を糾弾したり免罪したりこうあるべきだと、言わない立場を貫いています。ただ分析するのみです。しかし筆者は結論の中で、犯罪者を責めるだけでは『犯罪者と自らとの間に一線を画す点において勧善懲悪主義を超えていない。他でもないこの私自身が犯罪に手を染める可能性を見つめないと、悲劇の本当の姿は見えてこないし、同じ悲劇を再び繰り返す羽目にもなる』としています。時津風部屋の力士暴行死事件はいい例でないかと思います。

私はこういうのは専門でなかったのですが、縁あってこの本に出会いました。普段とはまた違う部分の知的好奇心を刺激され読み始めましたが、読み終わるとものの見方が、たとえテレビのワイドショーでも、すこし違った見方もできるようになったと思います。