人は人を殺してはいけない
★★★★★
死刑制度存置論者も廃止論者も人により意見はさまざまであろうが、それぞれの立場を明言している両者がいろいろな視点から意見を交わしており、自分の考えを確認する上でたいへん参考になる。死刑存置論者が(あるいは藤井氏が)死刑を廃止したら「加害者の命は守られる」、「国家がその命を保証する」と言う時、あるいは廃止することと「赦す」ことを同義に捉える時、そこにはすでに死刑が前提にあるのではないだろうか。加害者は他の人と同じく現に生きている。ただその事実から出発して、加害者を赦さないで罪を償わせるには、被害者の尊厳と遺族の応報感情を守るにはどうしたらいいかを考えた時、死刑が正しい解決法なのかどうかを判断すべきだと思う。そうすれば森氏の言うように、「人は人を殺してはいけない」という立場に多くの人が立てるはずだ。加害者を憎み、殺してやりたいと思うのは当然であっても、殺して良いかどうかは別の話だろう。また死刑制度をなくしたとしたらその是非について思考停止になることを心配もされているが、それで冤罪による死刑がなくなるならそれだけでも、その方がずっといい。
今だに死刑がある国ニッポン
★★★☆☆
死刑であれ他の刑罰であれ法治国家なのだからその制度如何は主権者である我々の手の内にあるということは本書を手にした読者なら誰もが認識していることだろう(そう思いたいが)。
凶悪犯であれば経済犯罪でも疑獄事件でも殺人事件でも容疑がかかれば「あんなヤツは殺してしまえ」的な短絡思考しか持たぬ者は本書を読むべきではない。それだけ崇高な対談書であることは確かだからだ。
殺人は良くない事だというのは両派ともに異存はないとおもうが、大局的に解するなら存置派は被害者感情が出発点であり、廃止派は国家による人権(個人)の蹂躙(抹殺)を問題としている。冤罪事件であればなおさらでそれこそ取り返しがつかないことになる。
刑事事件における刑罰とは国家が被害者(遺族)に代わり科す罪を償うための制裁措置だ。刑罰は司法により判決が出た時点で国家への委託となる。その国家が主権者である人民の命を犯罪者と言えど奪うということが正当であるのか?ここは人権派弁護士で死刑廃止論者の代表格である安田好弘弁護士も「人は心身も社会的にも変わる事ができる」と述べ憲法違反であるとしている。
国家に肩代わりさせ「命で償え」という被害者(遺族)感情として犯人に死んで罪を償わせることが本望ならば、軽い感情論で済ますことなく、法治国家だから許されないだろうが、被害者遺族が自らが加害者への処刑を主張するべきだ。
ここで国が重要な要素(役割)としてからんでくることがわかる。これがタイトルの「死刑のある国ニッポン」なのだ。
筆者は廃止派であるが、存置派の感情もわからないではない。自分の身内が殺されたときに死刑は・・・と考えられるかどうか本当のところ不安である。
ではどうしたら良いのか?これは国民に課せられた重大な責務である。細かい事は言わないが、もう存置・廃止の二極論を討論している段階ではないとおもう。
そう言う意味から星は3つとした。
カバーデザイン
★★★★☆
カバーデザインをもう少し考えて欲しい。
カバーデザインがきついので、すぐにはずしたら
もっとでかい写真が本体表紙だった。。。
どうすればいいのだ。
死刑廃止論者の嘘つき
★☆☆☆☆
森達也氏を含め死刑廃止論者は「死刑には犯罪抑止効果がない」などとよく主張するが、何を根拠にそう言い切っているのだろうか。たとえば死刑反対活動で有名なアムネスティが実例としてよく取り上げるのがカナダである。
『カナダでは1976年に死刑が廃止されたが、人口10万人に対する殺人発生率はその前年の3.09件から80年には2.41件に低下。2006年には更に1.85件まで下がった』…というのがその骨子である。
しかしよく調べてみると1976年に廃止されたのは警察官・刑務官を殺害した場合の死刑であり、その他の(一般的な?)殺人罪に対する死刑が廃止されたのは1966年なのだ。そして65年には1.41件、66年は1.25件程であった殺人発生率は、廃止翌年から見事に右肩上がり。1975年には倍以上の3.09件にもなる。年間件数で見れば66年に277件だったものが、75年には701件。2005年でも658件である。
つまりアムネスティは、きわめて恣意的、作為的なデータ解釈をもって『死刑に抑止効果がないことは明らかだ』などとアピールしていることになる。人の命に関わることなのに、こんなインチキが許されるのだろうか。
論理的議論を経た後に読む、哲学的に死刑を模索する本。
★★★★☆
死刑を考える上で本書を1冊目に選んだ読者は、本書を読む前にせめて森の『死刑』だけでも読み、先ず論理面から死刑について考えた後本書にかかるべきだ。
論理的な面からの是非について紙幅は取られていない本書からでは、代用監獄・取調べの可視化・世論に左右され罪刑法定主義をないがしろにする司法とヒラメ判事・被害者支援等二人の共通点についても理解し難いだろうから。
果たして死刑を論ずる時に、被害者の気持ちと同調することで生きていく中で感じるストレスを代替してはいまいか? 「暴力を合法的に独占する」国家に乗せられてはいまいか? そのような国家の恣意性を形作る集合無意識なものの一員となってはいまいか?
このような問いに読者はどう答えるのかとの煩悶を本書は投げかける。
論理だけではないからこそ(何度か繰り返される面があるにせよ)量があり、深みもある。
森は死刑を廃止できない理由を、多数派につくという国民性、メディアによって煽られるフェイクな危機管理意識、多くの人が死刑を概念的にしか知らない事と言うが、これらに沿った議論が積み重ねられているにしても、これを終盤でなく始めに提示すれば、違った角度からの議論になったろう。
またこの森の言を受けての藤井の発言がなく、別段落に移行している事にも不満は残った。
いずれにせよ、殺す刑を論議するのに多くの人は簡単に答えを出しすぎではないのか?
本書では言及されていないが、今後EUのようにASEANが発展し加盟に死刑廃止を謳われたり、米が死刑廃止国となり年次改革要望書に死刑廃止を突きつけてきた場合でも、死刑存置は大きなムーブメントとなりうるのか?
メディアがこぞって死刑のネガティブキャンペーンを張っても、存置派は立ち向かい続けるのか?
藤井は戦うであろうが、多くの人は否であろう。
ポピュリズムに乗らない一人となるためにも、読者は本書で大いに惑い悩んで欲しい。