落語と東京と漱石
★★★★☆
落語家、古今亭忘ん生と忘ん朝。二人の昭和の名人を論じた文章を集めた評論集。それだけでなく、失われた東京下町言葉そして漱石のユーモアまで論じた書である。地方出身の私には失われた下町言葉なぞ聞いたことがないが、作者は忘ん朝の死と共に下町言葉が失われ、時代の終焉を論ずる。漱石のユーモアについても落語からの影響を指摘する。
東京の「粋」を追求していくと、東京それも下町の人間にしか理解できないのかもしれない。それはその地域性だからである。例えば、「マタギ」といわれる狩猟を生業とする人々の文化は他の人たちには理解されないであろう。「農業」「漁業」もしかり。しかしながら「粋」というのはその「生き様」「生活」を表す日常のことである。職業で区別されるものではない。「粋」は魅力的な響きを私たちに与えてくれるが、粋だけが全てではない。
文化の終焉を見届ける悲しみ
★★★★★
落語をろくに聞いたこともないのに、私は小林信彦の文章と橘蓮二の写真とによって、何となく知識だけを増している。本書は、前者が絶対的に支持していた古今亭志ん朝が死去したことに伴い、急遽編まれた文集である。単行本は2003年1月初版(朝日新聞社)、なぜか文庫は朝日の宿敵、文藝春秋社からである。小林信彦にとって愛着深い江戸を破壊した戦争をかつて主導し、今もそれを正当化している会社から、自身の本を多数出版するというのは一体どういう心境によるものか、私には理解しかねる。
さて、「そんなわけでありまして・・・」本書は志ん朝とその父である名人・志ん生についての思い出話や芸談なのであるが、終章には「吾輩は猫である」を通して帝都風の上質なおかしみを解析する文章がある。著者が信奉する江戸趣味の来し方、そして志ん朝の死によるその滅亡が哀惜とともに描かれるが、著者の言うとおりなら、東京・下町人以外には漱石も落語も、決して理解できないことになろう。そうすると著者の嘆きは、きわめて局地的な文化の終焉に因ることになるが、実はこれはより普遍的な問題である。地域の貴重な文化が「グローバリズム」とやらによって消えていくのは、何も東京に限った話ではないからである。
偏愛的落語論
★★★☆☆
稀代の”見巧者”小林信彦さんの志ん朝論。
志ん朝を愛するが故にある種の落語家に対しては、まったく評価していない。私はその落語家によって落語好きになったので、週刊文春の連載は毎週欠かさずに読んでいる私としてはちょっと残念ではある。