貴重な本多勝一資料集と見るべし!
★★★★★
1937年の南京占領にともなう大虐殺の有無を論争する事は、偽右翼民族主義者の術数に嵌ってしまう危険性がある。
なぜなら、1931年の満州事変から、中国大陸で行われた中国との15年戦争は、紛れも無い「侵略戦争」であり、「進出戦争」ではないからだ。
例えれば、他人の家に土足で入っておきながら、南京ではいい子にしていたも何も無いだろう。
「侵略」を「進出」と置き換えた文部省教科書検定官の姑息さが、国際的には全く通用しない屁理屈であり、1974年の国際連合総会の「侵略の定義」からも、認められない国内向けごまかし工作だとする。
当時の日本政府および軍部は、この侵略戦争を日本の自衛の戦争とか、「暴支膺懲」(乱暴なシナを懲らしめる)だと言って、中国侵略の正当性や大義名分を振りかざしたが、「大量破壊兵器」でイラク戦争をおっぱじめたUSAと同じ侵略側のでっち上げであった訳だ。
今後の問題として、日本海軍の揚子江上での虐殺行為、南京市民への無差別爆撃、南京占領後のアヘン売買と特務機関の関与(第二次アヘン戦争)、強姦の黙認が軍隊内の不満や憤りのはけ口、安全弁的役割を与えていたという指摘がある。
また、シナ派遣軍参謀の経歴のある皇族の三笠宮崇仁が回想する。「(中共)八路軍の婦人に対する軍規は、驚くほど厳粛でありました。当時、日本軍人で婦女子に暴行するものがいることに頭を悩ませていた某参謀は、[八路軍の兵士は、男性としての機能が日本人と少し違うのではなかろうか]と真面目に話していた。」
この話、反共右翼、南京大虐殺プロパガンダ派、文部省教科書検定官たちどう解釈するのか、お聞きしたい。中国共産党の反日プロパガンダですか?(笑)
この造本、編集、価格には大いに疑問あり!
★★☆☆☆
私は本多勝一の著書はこれまで30冊くらい読み、愛読者と言っていい位であるが、さすがに本書はイタダケけない。
本書「あとがき」には、
「はじめの心算では、本書は「貧困なる精神」シリーズのU集に続くV集の予定でした。しかし編集してみると南京事件関連だけで従来のシリーズの一冊分を超過してしまったので、これはやはり独立した単行本とするほうがよいと考えなおした次第です。」とあるが、
疑問(1)ソフトカバーでコンパクトな「貧困なる精神」シリーズとはうって変わって、ハードカバーで大判の重厚な造本になったのは何故?
疑問(2)1000円強だった「貧困なる精神」シリーズとはうって変わって、本書はなんと定価3000円(+税)という大幅アップ!何故?
疑問(3)中身を読んでみると、教科書裁判での証人調書や意見書、シンポジウムの記録が半分以上のページを占め、本多氏自身が原稿を書いた部分は半分以下。しかも、巻末30ページには他人(藤原彰)の裁判での意見書を付しているのが、いかにも水増しクサイ。これで「著者 本多勝一」は無いだろうと思う。「本多勝一 編」と記すべきではないか?
又、本多氏の記事の内容にしても、特に後半の「五回目の南京を一九年ぶりに訪ねる」などはいかにも北京政府側から懐柔されたような筆致であり、右派からの格好の攻撃材料になるのではないかと思われる。
「ついに老いたるか、本多勝一」の印象が拭えない一冊である。
THE FAKE OF NANKINGの行方。
★☆☆☆☆
南京大虐殺はどはじめからありはしなかったことは
多くのデータ、資料、証言からネットや書籍を通じてもはや日本人共通の常識となりつつある。
結果として、「南京大虐殺」という一連の虚構の神話を通じて
ある意味日本人のナショナリズムが強化されただけに終わった感がある。
どういうことかというと、
この列島に暮らす人間の群れが「日本人として」共通の過去をもつと自覚すること、
自然物でも生物でもない抽象的な存在である国家が、
われわれが時間の中に残す痕跡を発見することからナショナルな同一性は生まれるわけだから
国家が歴史教育を重要視するのは国民を生産し、国家という抽象的な存在を再生産し続けるためであって、
それが栄光の歴史であるか恥ずべき歴史であるか、極端な話、それが嘘であろうが
それほど重要なことではない。
これはお隣の中国や韓国の歴史教育を想起してもらえば納得して頂けるだろうか。
中国や韓国では国民統合としての象徴があまりに脆弱な為、「反日感情」ででも
持ち出さないと国民を一つにまとめることができないのだ。
日本においてナショナリティの生産にもっとも熱心なのは案外リベラルサヨクと言われる人
達なのかもしれない。
個々の歴史的事実については詳しいつもりなんだろうけど、
結局のところ歴史というものの存在様態についての無知から、
彼らの滑稽な主張が繰り返されれば繰り返されるほど日本のナショナリズム強化、
ナショナルアイデンティティーの強化に知らず知らずのうちに手を貸しているのだ